視界の端に黒い影

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 朝、目が覚めると視界の端に黒い影があった。  トイレのマークのような簡易的な人型。  それが上下逆さにひっくり返ったような、うすらぼんやりとした影だった。  ゾワリ、と背筋が冷たくなるような感覚。  いつもならゆっくりと起き上がるのを、布団を急いでどけてベッドから降りた。  なるべく気にしないように、考えないようにする。  そうして朝の準備を終えると、いつの間にかそれは消えていた。  あれ自体が夢だったのかもしれない。  もしかしたら、寝ぼけていたのかもしれない。  日中の忙しさに集中して、忘れるようにする。  それでもふと、思いだしてしまう。  会社のトイレから急いで出たり、いつもの帰り道を早足で歩いたり、長風呂なのを短く済ませたりもした。  その日の夜は眠るのが怖かったが、明日も早いのでいつも通りの時間に床に就いた。  翌朝。  目が覚めると、視界の端に黒影があった。  昨日と全く同じ形をした黒い影は、少しだけ色が濃くなっていたようだった。  光の差し込まない寝室を急いで出て、太陽を浴びる。  それでも、視界の端には黒い影が居た。  眼を瞑っては首を振り、怖いので意識しないようにした。  すると、目を逸らすなと言わんばかりに目の前に黒い影が見えた。 「うわあぁあ!!」  今度は上下の位置が正しく、端に居た頃よりも明らかに近かった。  昨日は怖くて思いださないようにしていたが、遠い昔に聞いた話を思い出していた。  ――黒い影が視えたら気を付けないといけないよ。  対処法は教えてくれなかったが、死神だと祖母は言っていた。  普段は優しくて、からかうようなこともしないのに。  その話だけは、いつも真剣に祖母は話すものだから怖くてたまらなかった。  ここで俺は死んでしまうのだろうか。  目の前に影が視えているのが怖くて、思わず目を閉じる。  閉じたからって回避できるわけではないだろうとは頭では分かっていた。  日ごろの不摂生に自覚はあるが、まだやりたいこともあるので終わりたくはなかったし、少しでも逃避したかったのだ。 「……おい、なんでお前がいるんだよ」 「は? そっちこそ何でいるんだ。こいつは俺が連れてくんだぞ」  聞き慣れない声が二つした。  これが死神の声なのかもしれない。  だが、俺が見たのは遠近が違うだけの死神だ。  何故、二つ声がするんだろうか。 「……ん?」  不思議に思って目を開けると、そこでは黒い二つの影がぶつかり合っていた。  簡易的な人型ではなく、真っ黒な球体がぽいんぽいんと跳ねていた。 「近くにいたのは俺だぞ」 「ふざけるなよ、僕は昨日から待機してたんだよ」 「近くにいるヤツが連絡を受けて回収するもんだろ。受注したか?」 「したよ、だからここに……あっ」 「ほーらしてないだろ、だから俺は間に合ったわけだし、押しちゃおっかな」 「待てよ、僕が先だったんだってば!」  そんな、飲食物のデリバリーみたいな形式で魂は回収されているんだろうか。  困惑していると、跳ね合う球体の間からピロリンと軽い電子音がした。 「えっ、なんで!?」 「嘘でしょ!? 回収済みになってる!」  なんとなく、こちらの方を見られているような気がする。  もちろん生きているし、身体に違和感もない。  二つの黒い影はピタリとその場で止まって、内容をよく確認しているようだった。 「この人だったよね……あってるよね」 「あってると思うけどな……」 「性別、年齢、身長、住所……あっ」 「げっ!!」  そろーりと、二つの丸っこくて黒い影がこちらを見たような気がする。  その場で小刻みに震えるようにしてから、こう叫んだのだった。 『人違いでした、すみません!!』  ピュゥー、という音を立ててそれは窓から抜けて出た。  聞いた感じだと住所が違ったらしい。  危うく勘違いで連れていかれる所だったのかもしれない。  ゾワリ、としたのでまた考えないようにする為に、手早く出かける準備を始める。 「……健康には気を付けるか」  次に黒い影に会うのは、遠い未来にするために小さく呟いた。
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