黒い顔

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 ある時から、人の顔が黒く見えるようになった。  目や鼻、口など、およそ人の顔と呼ばれる部分が黒塗りにされているのだ。  まるで、墨で真っ黒に塗りつぶされたように……。  原因は……わからない。  目の病気か脳の病気か、はたまた精神的なものか……。  今すぐ病院に行くべきだろうが、何か恐ろしい病気が見つかりそうで怖くて行けていない。  この現象が現れてから、もう一ヶ月ほど経つ。  当初は激しく混乱したものの、今では慣れてしまった。  鏡に映る自分の顔も黒いわけだが、髭剃りや歯磨きは感覚でできる。  今やっている仕事は完全リモートのフリーライターということもあり、そもそも対面で人と接することが少ない。  たまにオンラインで会議をすることはあるが、打ち合わせ相手の名前は表示されているし、顔を出さない取引先もいる。  よって、特に問題はなかったのだ。  自分の仕事が営業マンだったりすると難義したと思う。  コンビニやスーパーなどへ買い出しに行っても、今はセルフレジが普及しているから不自由は感じなかった。  一人暮らしなので身近に相談できる相手もおらず、結局のところなあなあで過ごしている。  仕事をしながら今日の夕食は何を食べようかと考えていたら、ふいに手元のスマートフォンが通知を知らせた。 「……あぁ」  チャットアプリに表示された人物の名を見ると、それだけでため息が漏れた。  ――田淵(たぶち)夏子(なつこ)。  自分――村木(むらき)(さとし)の交際相手、いわゆる彼女と呼ばれる存在だ。  付き合いたての頃は通知が来るたび、電話が来るたび心をときめかせていたが、そのような気分になることはもうなかった。  ただただ煩わしい。  できれば無視したいものの、この一ヶ月ほどある重要な話を進めており、無視するのは得策ではなかった。  スマホをタップしメッセージを開く。 〔あの話のことだけど……今夜、聡君の家で話してもいい?〕  わかってはいるが、やはり憂鬱な気持ちになる。  一刻も早く、この心が暗くなる感覚から抜け出したい。  うんざりしながらもコツコツと画面を叩き、今夜の22時自宅で会う約束を交わした。  自分は今……夏子と別れ話の最中だ。  32歳の彼女と、今年28歳を迎える自分。互いに適齢期なこともあり、最近結婚の話もちらほらと出始めた。  付き合って今年で4年か……。  タイミングを逃してしまい、恋人止まりで停滞している。  特に最近は、できればもう少し若い娘と……という下心が出てきてしまった。  自分はそれほど好青年ではないが、資産的には余裕がある。  ……宝くじに当たったのだ。  金額はおよそ3000千万円。  つまらない会社を辞め、フリーで働く決意を固めるには十分な金額だった。  金をくれた銀行から他人には話すな、と言われたが、気が大きくなり、退職前何人かの同僚に話してしまった。  とは言っても、たかられることはなく、せいぜい昼飯を奢るくらいで済んだのが幸いだ。  近所のスーパーで購入した惣菜と白米で夕食を済ませ、だらだら過ごすと22時が訪れた。  時計の長針が12を指すと同時にインターホンが鳴った。  夏子はいつも、時間ピッタリに訪れる。  ため息をつきながら廊下を歩き、ドアを開けた。  緩いウェーブのかかったロングの茶髪を揺らし、薄いピンクのフェミニンなワンピースを着て、白いハイヒールを履いた人間がいる。  夏子だ。  髪型は普段通りだし彼女の夏の定番ファッションなので、顔を見なくともわかる。 「ごめんなさい、待った?」 「いや、待ってないよ」 「優しいのね、聡君は」  いつもの面倒なやりとりに辟易すると、小さな違和感に気づいた。  なんだか夏子の声がガラガラだ。  声が嗄れてるな、と言うと、夏子は申し訳なさそうな声音で言った。 「風邪をひいてしまって喉が痛いの。でも、大丈夫。マスクは外さないから」 「……そうか」  黒塗りの顔からはマスクであろう白い耳紐が見える。  風邪なら来るな、と言いたいところだがぐっと我慢した。  これからする話を考えると、彼女の機嫌はなるべく損ねたくない。  とりあえずリビングに通すと、夏子は手提げ袋から小ぶりの西瓜(すいか)を取り出した。 「来る途中、八百屋さんで買ってきたの。一緒に食べましょう」 「そうだな」 「包丁借りるわね」  わかった、という前に夏子はキッチンから包丁を持ってきて、わざわざ目の前のテーブルで切り始める。  包丁が入るたび、やけに赤い果汁が迸った。  夏子は西瓜を切りながら、嗄れた声で話す。  「西瓜がおいしい、私の季節が来たわね」 「あぁ……」  彼女の言葉に力なく答える。  夏子は夏が来ると、よく"私の季節が来た”と言った。  要するに口癖だ。自分の名前が入った季節だからだろう。  交際当初は可愛く感じたが、今はただの疲れる口癖だった。  無論、宝くじの件は、夏子には話していない。  もし伝えたら絶対に別れようとしなくなるからだ。  夏子は包丁を西瓜に入れながら、話す。 「あの話だけど……やっぱり、考え直してはくれないの?」 「考え直すことは……ないよ」 「……そう」 「……悪いな」  別れ話は撤回できないとさらに伝えると、夏子は静かになった。  黙り込んだまま西瓜を切る。  その顔を見た瞬間、血の気が引くのを感じた。  彼女がどんな表情をしているのか……わからない。  怒っているのか悲しんでいるのか、はたまた喜んでいるのか……黒塗りの顔ではわからない。  人の表情がわからないことに、初めて、恐怖を覚えた。  しかも、彼女、の手には、包丁がある。  下手に刺激すると己の命に危機が及びそうで、それ以上何も言えなくなった。  夏子が西瓜を切り分けるのを呆然と眺めていると、ふと思い出したことがある。  そういえば……。  ――夏子に別れ話を切り出したときからだ。人の顔が黒く見えるようになったのは……。  記憶を遡っても、ちょうど一ヶ月前に夏子と別れ話をした時期と重なった。  よく覚えている。  激しく泣かれ、物を投げられ、自分の身体は傷だらけになったのだから。  不気味な事実に背筋がひやりと冷たくなり、自然と夏子から離れる。  すぐ後ろの本棚に背中が当たったとき、とある素朴な疑問が頭に浮かんだ。  そう、いたって素朴な疑問が……。  ――そもそも、こいつは…………夏子なのか?  髪型や服装なんて、本人を知っていれば真似るのは容易いだろう。  口癖だってそうだ。  風邪ということだが、夏子の声にしては低すぎる気がする。  身体だって筋肉質な感じがするような……。  気づきもしなかった違和感が次々と脳裏に表出し、心臓を冷たく鼓動させる。  目の前の人物に気取られないよう、必死に窓や玄関までの道を考え始めたときだ。 「……どうしたの、聡君。西瓜、切れたわよ」 「あ……」  赤い果汁を纏った包丁が、無機質に輝いた。
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