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瞑っていた目を開く。
相変わらず霧雨が降っていた、梅雨とはいえ一体なんだというのか。オマエの気分はこれだろうなんて、随分と嫌味な空模様だ。
時間を確認する。ケーキ屋さんが開くまでは、あと一時間ちょい。オレは再び文庫本に目を落とす。
誰もいない。雨音もない。コーヒーの香りは少しするが、もしかしたらそれも気のせいかもしれない。
妻と口論したくなくてプチ家出。
もはや喧嘩ですらない。オレが一人でいじけているだけ。
本当に幼稚であると思う。恥ずべき事だと思う。
でも、結婚したからって突然大人になる訳じゃない。子供が出来たからって急に父親になる訳じゃない。
妻に謙って生きると誓っておいてその実、ちょっと何か気に食わないと臍を曲げる。頭を冷やすと家出したあげく、自己嫌悪に陥り時間潰しも上手く出来ない。
オレは、オレは自分をきっと、誤魔化しているのだろう。気に食わない事柄から目を背けやり過ごしているのだ。
愛情故に、自分に嘘をついている。
でもそれは悪い事じゃないだろう。
ふと、眺めていた文庫本の『幸福の対価』という文言が目に付いた。
そうそう、納得の上でそうしているのだから。
『品や金の、与えられる幸福にうち、手段がひとつに過ぎない』
そうだそうだ、その通りだとも。なんだ、適当に手にとったが良いことが書いてある。
『理由こその故に、愛情の値段は決して互いに値段が同じであることは稀である』
そう。それは理解している。
あの時も、こんなイヤな雨が降っていたんだった。
なんでそうなったんだったか。少し前、一人でツーリングに出かけ事故を起こした。
右に入ろうとして、後ろから跳ねられたのだ。あの感じだとバイクは大破だろう。それくらいの大きな事故。
意識が戻って最初にみたのは、気の毒そうな医者の顔。それから入れ替わり立ち替わり、様々な人から現状を聞くうちに頭と肝が冷えていく。
これは、仕方ない。
どうにもならない。
「今なら、君なら、きっとまだ次が、あるんじゃないか?」
翌日、見舞いに来た妻に伝えた。
愛しているなどと、未練がましい事は言わないように言葉を選んだ。
ヒロインになって欲しくなかったのだ。
これはとても現実的な問題であり、その場の勢いで決めて良い事ではない。
運命の相手などいない。彼女の相手はオレではどうやら不適だ。
悲恋ではない。リスクマネジメントである。
オレの必死な言葉に「ふーん…」と、冷静な返答をした彼女は、
「それを決めるのは、貴方ではないよね?」
どうしても、ヒロインになってしまった。
「貴方は死ぬまで幸せ。その後どう生きようがそれは私の勝手。それで話は終わりでしょ?」
ではその毅然とした顔を見て、さながら雨が上がり雲間から光が注ぐようになんて、彼女を女神と崇めるような気持ちになったか。
あるいはその方が、オレがそれほど単純な男だったら良かったのだ。
オレはその時、確かにその時、
『どうしたら説得できるのだろうか』
と、冷や汗をかいていたのだ。
その後、どうやら死なないで済むということが発覚し、二週間程度の静養を経て職場復帰した。
騒ぐだけ騒いでバカみたい、と、いうほど不機嫌そうではない妻をみて、また、こんな不出来な夫を見捨てずに支えてくれたこと。
『これは運命にする他、しょうがない』
生涯の禁酒と共に、やがて得た結論である。
度し難い、妻すら救わない結論。
そうして全て納得したはずのオレが、今、こうしてベンチに漫然と座っているのだから。
つまり、全部オレが悪いのだ。
『お金なんていらないと貴方は口にする。しかし、あるに越したことはないと貴方は脳にしている』
それにしても、先程からなんだかイヤに文章が嵌り過ぎている。
違和感を感じて、オレは文庫本を閉じタイトルを確認した。
『 まで る幸 』
雨で滲んでしまったのか。ボヤけてしまって読めない。
この本はコンビニで買い直そう。今度は溶けないように傘も買わなくてはいけない。
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