ままである幸福

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 カクッと頭が縦に揺れ目が覚めた。  なんだ寝てたのか、と思う前にスマホを取り出して時間を確認する。  十時五十分。オレの体内時計もなかなかのものだ。  目を向ければ文庫本が足元に落ちていた。屋根がなければ夢と同じになっていたかと、妙な事を考えて安堵の息を漏らす。 「起きた?」  急に声を掛けられてビクリと身体を跳ね上げる。 「十一時になったら起こそうと思ってたんだけど、企業戦士、流石だね」  少し離れたところに、妻が座っていた。 「ご、え?ごめん。あめ?え、傘さしてきた?」  起き抜けに動転してしまい、よく分からない質問をする。妻はこちらに目を向けず、ゆっくりと頷いた。 「どうにかなるよって。とっくに覚悟決まってるんだけど?」  なんだ?まだ夢か?  雨の降るベンチで妻がオレを詰っている。探させてしまったのだろうか。 「まんまとプロポーズさせてやった、私の気持ちを無視してるよね?」 「そんなことないよ。嬉しかった」 「うそつき、逃げられないなって顔してた」 「そんなことないって」 「あんな顔されたらふつう別れるよ?分かってんの?」 「もちろんだよ、当たり前じゃないか」  オレは最低だ。妻になんてことを言わせてしまっているのか。  慌てて起き上がって、妻の前に跪く。 「愛してるよ、オレすげぇ幸せだもん。君以外と結婚するなんて考えられない」 「…………ふーん…」 「君の言う通りだよ。今でも申し訳なく思ってる。でも、でもそれでもいいじゃないか。責任感でも義務感でも。オレと君と、あと子供も、幸せなら何でも良くない?」 「良くない」 「良くないか、まいったな…」 「この場を収めようとしてる感じがすごくイヤ」  そうか。  妻は、怒ったままでいられるのだ。  オレは、不機嫌なままではいられないのだ。 「ごめんなさい」 「許さない。一生いう」 「うん、一生いって」 「雨上がったし、やっぱりごはん食べに行こうって、誘いにきたの」 「あ、え?」  振り向き漸く気が付く。  曇天ながら、確かに雨は上がっていた。 「いこう。あそこの焼き魚定食が食べたい」 「いいの?いつものとこじゃん」 「なに?食べたいんですけど」 「うん。いや、じゃあ帰りにケーキ買っていこう」  立ち上がり、妻の手をとる。  握った手は少し震えていて、また妻に申し訳ない気持ちが募る。  怒っているだけじゃない。  喜怒哀楽ないまぜになったまま、妻もオレと暮らしているのだ。 「もう家出したりしないから」 「そうして。ありえないから」 「うん、君でよかった」 「やめて、勝手に解決しないで」 「してないよ」  オレは結局、自分を偽ったままなのかもしれない。  とりとめもなく、漠然と騙されたようなこの気持ちは、失くならないのかもしれない。  良いのだ。  それでいい。 「どうぞオレの側で、一生いっていて欲しい」  それだけは、確かな気持ちであるのだから。  夢で見た文庫本の通り。あれは自己投影だったのだろう。  オレは、妻に騙されたような気持ちのまま。  そうしていたいのだ。 「なにそれ?まあいいや、ねえいこう」 「うん。本当にありがとう。これからもよろさそくね」  あいも変わらず曇天の空模様であるが、それでもすっかり晴々としたような心持ちだ。 「あ……」  歩きだそうとしたところで、そういえば文庫本とホットコーヒーを回収していない事に気が付く。 「ごめん。ちょっと待って」  手を離し、さっきまで座っていた場所に目を向ける。 「…………あれ?」  何もない。首を傾げるオレ。 「ああ、溢しそうだったから回収しといたよ。ホットコーヒーと、文庫本。買ったの?」  妻が手に持ったビニール袋をこちらに向けて振った。 「そう……か、ありがとう」 「なあに。まだ夢の中?」  オレを待ってくれない君の背中。  今日もいつものとこで焼き魚定食を食べて、ケーキを買って帰ろう。 「うん、そうかもね。あはは…」  雲間からこちらに向かう、光の射す方へ。  今日は晴れたんだなぁ、と、オレも歩き出す。 「…………………?」  雨上がりの空の下。  ふと、顔に雫がかかった。  それはこの曇天がしぼりだした、最後の一滴だったのかもしれない。
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