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二十二世紀──最後の『黒の世界』
アンソニーは深いため息を吐くと鉛色をした眼鏡を外した。
「アンソニー」
妻のソフィアが声をかけてきた。
ソフィアはアンソニーの頬が濡れていることに気がついた。
「また、『黒の眼鏡』で観てたのね。『黒の世界』を」
「ああ、過去の戦争の歴史を観ていた。今映し出されたのは、幼い少女と青年が寄り添って生きて、そして亡くなっていく姿だった」
「アンソニー、その黒の眼鏡をかけると、過去の様々な暗い歴史が分かるけど、わたしはもう観たくない。あまりにも残酷なんだもの」
「ソフィア、僕だってそうさ。できれば、黒の世界を観たくない。だけど僕は目を逸らすことができない。過去、人類は戦争を繰り返してきた。黒の眼鏡で観た二十世紀も二十一世紀も、まるで地獄絵図のような殺戮の世界だった。でもだからこそ、二十二世紀に生き残ることができた僕たちは過去から学ばなくちゃ。二度とあの悲惨な過ちを侵してはならないからね。だけど、今世界は混沌としている。今度戦争が起こったら人類は滅ぶかもしれないのに……そんなこと決して許してはならないんだ」
「そうね。この子のためにも」
ソフィアはお腹に手を当て大きく頷いた。
「あっ動いたわ」
ソフィアが嬉しそうな声をあげた。
アンソニーはふっくらとしてきた妻のお腹を愛おしそうに見つめ手を当てた。
窓から入ってきた柔らかな風が二人の頬を撫でた。
二人は窓の外を眺めた。庭に植えられた桜の花びらがひらひらと風に舞っている。
ソフィアが出窓を大きく開けて花びらに手をかざした。
アンソニーが傍らにきてソフィアの肩を優しく抱いた。
ソフィアはやわらかな声でアンソニーに言った。
「何も贅沢な暮らしなどいらない。あなたとお腹の子と三人で幸せに暮らしていければそれでいい」
窓から入ってきた桜の花びらがふわりとソフィアの髪の上に舞い落ちた。
アンソニーはその花びらを優しく摘んだ。
二人は微笑みあった。
そのとき、非常事態を知らせる警報音が街中に響き渡った。
すべてを切り裂く悲鳴のような警報音がアンソニーとソフィアの家を震わせた。
アンソニーは自分の身体で庇うようにソフィアを包み込んだ。
ぴかっと閃光が走った。
耳をつんざくような爆音が響き渡ったかと思う間もなく、凄まじい爆風が二人をさらっていった。
〈了〉
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