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その日、健ちゃんは夕方遅くになってからやってきた。
さっきまでの青白い顔はなりをひそめ、いつも通りに朗らかな笑みを浮かべている。
「健ちゃん、今日は遅かったのね?」
「ごめんよ、ちょっと用事があって。こう見えてまだ引っ張りだこのカフェオーナーだからね。お店が繁盛して抜け出せなかった」
「まあ、それはいい事ね」
健ちゃんの嘘に幸は気がつかない。千恵だって全然気がつかなかった。今までだって知らなかっただけでいくつもの優しい嘘がちりばめられていたのかもしれない。
健ちゃんはいつものようにベッドのそばの椅子に腰を掛けるとカバンの中から果物を取り出して幸のために魔法を見せる。
健ちゃんがナイフを扱うとまるで手品のようにいろんな形に変化して、お皿の上に並べられた。
「いつ見ても鮮やかだわ」
薔薇のように形作られたリンゴをまじまじと見つめながら幸は感嘆の息を吐いた。
「健ちゃんの手にかかればなんでも美しく変身できるのね」
シャリっと甘やかな音が病室の中に響いた。
夕暮れが病室の中をオレンジ色に染め上げていく。
遠くでカラスが鳴いた。
そんな穏やかな時間を破ったのは健ちゃんの声だった。
「さっちゃんに話さなきゃいけないことがあるんだ」
「なあに?」
「うん、あのね」
健ちゃんは迷うように口を開いては閉じるを繰り返した。そして覚悟を決めたのかもう一度顔を上げ幸を見つめた。
「あのね、さっちゃんが運ばれてきた時、ちょうどぼくも病院にいて……検査の結果が出た」
「検査……?」
祖母の声が低くなる。
「健ちゃんどこか悪いの?」
務めて冷静であろうとする幸に「うん」と答えながら健ちゃんは泣き笑いのような複雑な表情を浮かべた。
「実はそうなんだ」
健ちゃんはドクターに告げられた症状をそのまま幸に伝えた。その瞬間幸の顔から一切の表情が消え時が止まったかのようになる。もう助からないと知ってしまった。
「そんな……」
「これも運命かなって思った。もう二度と逢えないと思っていたさっちゃんが目の前にいて……ぼくの残り少ない人生に再び君が現れてくれた」
健ちゃんの優しいほほえみが夕日に照らされている。
「まさかと思ったよ。自分の病気もそうだけど、このタイミングで君がいることに。___昔言っただろ、最後に君に逢いたいって。願いって叶うものなんだな」
「なによ勝手な事ばかり……突然そんなこと言われて……これからまだまだ一緒にいられると思っていたのに……」
「ぼくもそう願っていたんだ。だけどそれは難しそうだ」
健ちゃんの身体は徐々に病に蝕まれていて、もう手のつけようがないらしい。そうドクターに言われてしまったとこぼす。
「あとは好きに生きてくださいって……今更さ、どうにもできなくなってから言うんだもんな。もっと早く……そしたら君を」
言葉の途中で健ちゃんは首を振った。
「まあ今更だよな。だけどこれが現実で。だからもしぼくが会いに来れなくなっても君に逢いたくないわけじゃないって事だけおぼえておいて」
健ちゃんはおそるおそる幸の頬に触れた。
柔らかく包み込んでじっと見つめ続ける。
「ごめんね、さっちゃん、いつも君を泣かせてばかりだ」
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