幸、女学生の頃

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 そう口を開いた瞬間、健ちゃんが磨いていたグラスが落ちて派手な音を立てた。彼自身がびっくりしたように割れたグラスを眺めている。 「健ちゃん、大丈夫?」  慌てて立ち上がると健ちゃんはハッと我に返ったかのように慌てて「大丈夫」と眉を落とした。 「ごめん、ちょっと手元が狂ったみたい」  言い訳をこぼしながらしゃがんでグラスのかけらを集めている健ちゃんの背中がぎこちなく動く。 「危ないよ」  手伝おうとスツールから降りて近寄ると健ちゃんが叫んだ。 「来るな」 「でも、」  割れたグラスで、男の人にしては細くて長い指が怪我をしたらと思ったらいてもたってもいられなかった。  カウンターの中に入ろうとする幸の手首を健ちゃんは捉えた。真っすぐな真剣な視線にからめとられる。掴まれた手首から健ちゃんの体温が伝わってきて動けなくなる。 「健ちゃん……」 「危ないから来るなって言ったろ」 「でも……」 「幸が怪我をしたら困るからダメ」  幸、そう呼ばれた。その瞬間心臓がありえないような音を立て始める。交わった二人の視線は絡んだまま解けない。まるで電流が流れたみたいに二人の間が通じ合う。  ねえ、もしかして健ちゃん。  健ちゃんは幸の手首から手を離すと「ごめん」と謝った。 「何を謝ってるの?」 「乱暴につかんでしまったから」  健ちゃんはしゃがみこむと黙ってグラスを片づけ始めた。幸はその隣に立ち尽くし、健ちゃんの手元をじっと見つめた。  お店の賑やかさが遠くなっていく。 「その通りだよ」  うつむきながら健ちゃんは呟いた。 「幸が結婚するって聞いて動揺した。どんな男とだよってむかついた。そんな事思う資格もないのに」 「健ちゃん、だったら」 「無理な事わかるだろ。幸のようないいところのお嬢さんと、こんな場末のカフェでしか働けない男と」 「でも、」 「でもじゃないんだよ、幸」  綺麗にグラスを片づけ立ち上がった時にはもういつもの健ちゃんに戻っていた。どこか晴れやかな顔つきで幸を見つめる。 「前にも言っただろ、幸はちゃんとした人と結婚して、ちゃんとした家庭を作ってって」  健ちゃんの綺麗な指が幸の頬を撫でる。 「もっと早く離してやらなくてごめん。もっとキッパリと断ってあげなくてごめん。幸の幸せを願っている。ずっと想っている。だからもうここに来ちゃだめだ」 「やだ健ちゃん」 「不安そうな顔をしてお父さんを探しに来たあのさっちゃんが綺麗な女の人になったなあ」    健ちゃんは眩しそうに目を細めた。それはまるで幸に恋をしている男の人の顔で、幸はいや、と首を振った。 「健ちゃん、」 「聞いて、幸。いつかね、もしも……」  おずおずと幸の手を握り、祈るように呟く。 「幸が幸福な人生を歩んで、おれも人生を全うすることが出来たら……最後の瞬間に逢うのは幸がいい」 「健ちゃん」 「この世の最後に幸の笑顔が見たいよ」  いいよ、健ちゃん。健ちゃんが死ぬときにはわたしが会いに行って最後に見た景色になってあげる。だから健ちゃんもわたしの最後には会いに来てよね。約束だからね、絶対に忘れないで。  それが健ちゃんに会った最後だった。
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