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嫌なこと。たしかに木が俺に刺さるように近づいたわけではない。俺が先に触れたんだ。武仲が実をもいだときのように。どれが俺の檜葉かはすぐにわかった。左指先と繋がっている木だ。その前まで歩き、正面に見る。多分、檜葉。確かに敵意は感じない。ただ、俺ではないと感じるだけだ。
「先日は触れてすみませんでした。俺からこの棘を取り除いてくれませんか」
ざわざわと風もないのに木が揺れる。心臓がドキリと揺れる。恐ろしくはない。それはすでに俺の指がこの木になりかけているからかもしれないし、やはりそもそも敵意はないのかもしれない。包帯を解けば、指先から1センチほどの長さに棘が突き出ていた。ささくれた檜葉の表面に触れれば、奇妙な感覚とともに骨が引き抜かれる感覚がした。そして俺の指の表面のささくれもまとめて引き剥がされ、思わず叫び声を上げた。みれば左人差し指は血まみれで皮が剥がれ、ぽたりぽたりと血が流れている。
痛い。けれどもこれで、棘が抜けたと感じた。何故ならこの奇妙な世界が少しだけ薄暗くなったからだ。そのことに安心した。あとは振り返らずに帰ればそれでいいはずだ。
「武仲。俺は帰るよ。じゃあな」
「本当に帰っていいの?」
わからない。けれどももう、これに返事をしてはいけない気がした。今度は何にも触れないようにトンネルに急ぐ。トンネルの出口が明るく四角に浮かんでいる。急ぎ足で駆け抜ける。そうしてあと一歩であの街灯の下に出ようとする時、急にあの武仲がいた場所が遠ざかったのを感じた。
ここはもとより都市伝説の場所だ。あと一歩踏み出せば、おそらく二度とここにたどりつくことはできないだろう。そんな予感がした。
暖かくすごしやすそうで、食べ物に困らず働かなくていい場所。けれども人が住めない場所。その中で武仲は幸せそうだった。けれども人がいるべき場所じゃない。そう強く思っている。今でも。
武仲は人であることをやめたのだ。俺と武仲との間になる五十歩。それが俺と武仲の世界を分けたのかも知れない。それで武仲は、幸せになれたのだろうか。
様々な記憶が去来する。楽しかった学生時代。なんで生きているのかわからない今の暮らし。ずっと、このまま。俺は幸せなのか? 武仲より?
そう逡巡していると、ジジジと音がして、目の前の電灯の灯りが切れた。すとんと真の闇が訪れる。黒が溢れている。
「何故」
不意に訪れる狂いそうになる孤独感。
慌てて見上げても、星あかり一つ見えない。
「さようなら」
ふいに耳元で聞こえた武仲の声に思わず振り返っても既に全ては闇に包まれ、先程まで明るかったはずのトンネルの奥の光も途絶えていた。
俺の世界に明るさを与えていたあの棘は、檜葉に返した後だった。
Fin
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