黒い羊

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黒い羊 「マコトもそう思うでしょ」  聞かれてすぐに返事をすることができなかったのはぼんやりと考え事をしていたからだった。母が何について話していたのか思考がまとまらない。血を分けた姉を亡くしたばかりだというのにこんなに饒舌なのは、関係性が希薄だったからなのか、それとも母は母なりに動揺しているのだろうか。  目を閉じて棺のなかで眠る伯母の身体は記憶の中のものよりもずっと小さく思えた。記憶の中の伯母、と言ってもそれほど多くの思い出があるわけではない。伯母には家族がなく、ドイツの片田舎に住んでいて親戚の集まりにもほとんど顔を出していなかった。母はよく伯母のようになるな、と口を酸っぱくして私に忠告した。生きてるんだか生きてないんだか、なんの仕事をしてるんだかわからない、というのが母による伯母の評価だった。  そのおかげなのか、私は実家から通える老舗の信用金庫に事務員として就職した。毎日窓口で老人の対応をしながら、時折伯母のことを思う。あんなふうに生きることができたら私の人生はまったく別のものだっただろうと。    大学の長い春休みに一度伯母を訪ねていったことがある。羽田からミュンヘン空港に降り立ったとき、黒いロングダウンジャケットを着込んだ伯母が到着ロビーで出迎えてくれた。 「ほんとに来たんだ」  大きな声で伯母が笑っていたのを覚えている。  10年落ちの古いフォルクスワーゲンに乗って伯母の運転でアウトバーンを走った。きらびやかなミュンヘンの街ははるか後方に消えていく。どちらかといえば派手な顔立ちの伯母は、母と少し似ているが、性格は正反対だった。私が起きたときにはきちんと身ぎれいにして化粧をし、少しも日焼けしないようにクリームを塗る母に対して、伯母は髪はボサボサで化粧けはなく、つよいヨーロッパの日ざしを受けて日に焼けた肌はかさついていた。保守的な母に対して、伯母は自由奔放で、何十年も前にふらっと思いついてドイツに行き、レストランやベーカリーで働き、現地の男性と籍を入れたと思ったらすぐに離婚して独り身になった。  伯母の家は南ドイツの外れの森の中にあり、風光明媚なボーデン湖のすぐ近くだった。広い庭には4匹の雌鶏と、1匹の猫、それに1匹の大型犬がいた。フォルクスワーゲンから降りると、それらが出迎えてくれて驚いた。 「にぎやかでしょう」と伯母は笑った。  コテージと掘っ立て小屋のちょうど中間くらいの広い一軒家に伯母は住んでいた。部屋の数は多く、そのうちの使っていない部屋が私の寝室になった。家具はアンティークと粗大ごみの中間くらいの趣きで、伯母曰く前の住人が置いていったものや、近所の人が要らなくなったものをもらったそうだ。  私がこの家で暮らしたのはほんの2週間ほどだったけど、伯母はとくに私に気を使うこともなく、普段通り過ごしているようだった。朝は鶏や犬猫の餌やりから始まり、家庭菜園で育てているトマトやバジルの世話をして、晴れていたら森を散歩して、雨が降っていたら部屋にこもって読書や絵を書いていた。  物置から錆びついた自転車をみつけた私はそれを修理して毎日湖に通った。1時間かけて湖にたどり着くと、パン屋に入ってサンドイッチとコーヒーを飲みながら湖を眺め、パン屋の窓から見える風景をスケッチをして、また1時間かけて伯母の家に戻った。雨の日は伯母と同じように家にこもってキャンバスを並べ、犬や猫、あるいは雨宿りしているカラスを描いた。  伯母は自分の世界に入ると無口な人で、のべつ幕なしにしゃべっている母とそこが大きく違った。私と母、それから伯母の3人の共通点は絵を描くのが好きなことだった。私が何か絵を描いていると母は頼んでもいないのにスケッチブックを覗き込んで改善点を指摘するけれど、伯母は何も言わなかった。それが私にとっては心地よく感じた。  でも、だからといってなにも話さなかったわけではない。あるとき珍しく伯母がワインを開けて私もそれに付き合った夜のこと、ぽつりと伯母は「黒い羊」と言った。  私が聞き返すと、「私はね、黒い羊なの」と伯母は言った。 「あなたのお母さんのようにどうしてもできない。決まった時間に起きて決まったことができない。みんなと同じ方向を向いてじっとしてられない。この子みたいにね」  伯母の視線の先には飼い猫のツィマーマンがいた。黒いオス猫の彼はスケッチが終わるまでじっとしていてくれない。ようやくラフに輪郭ができたと思ったらいつもすぐにどこかに消えてしまった。  私は何かいうべきかと思ったが、何も言葉が出てこなかった。いつもそうだ。何か話すべきときに、何か話すべきだと気がついたときにはそのタイミングは失われている。 「でも、それでいいじゃない。こうして生きているんだし」  伯母の言葉が誰に向けられたのかはわからなかった。伯母はそれきり何も話さず、最後のワインを飲んで、そのままお互いの部屋に戻った。  ミュンヘン空港で飛行機を待つ間、空港内の適当なパン屋のカフェでコーヒーを飲んだ。その間伯母は空港の風景や行き交う人々をスケッチしていた。待っている間、ずっと黒い羊のことを考えていた。ゲートがオープンしたとき、伯母は私をゲートまで見送ってくれた。 「また来なさい。ツィマーマンもシュナイダーも歓迎するから」  伯母らしいさっぱりした別れの挨拶の挨拶だった。さっと自然に右手を出すので、握手を求められているのだと気がつくのに時間がかかった。私がおずおずと手を差し出すと、それを握り返す伯母の握力は思ったより弱かった。今思えばあのときからすでに病魔が伯母の身体を蝕んでいたのかもしれない。  伯母はまた来ればいいというけれど、それほど簡単に来れる場所じゃないと私には感じていた。それでゲートに向かって半歩だけ歩き出して止まり、振り向いて尋ねた。 「私も黒い羊だと思う?」  思えば私もずいぶんと突飛な質問をしたと思う。黒い羊うんぬんの話を伯母と交わしたのはもう数日前のことだ。ところがそのとき伯母は驚くどころかどこかもう何日もその質問を待ち構えていたかのように答えた。 「自分で決めなさい」  突き放されたような言葉だったけれど、不思議とそうは感じなかった。言われて心が軽くなるような爽快さを感じたのを覚えている。 「マコトもそう思うでしょ」  母の言葉は電車の車内にかき消され、流れていく景色と一緒にどこかに消えてしまった。母はきっと私が聞こえなかったのだろうと思ってそれ以上何もいわなかった。でも次の停車駅で降りる直前に私はきっぱりと答えた。 「伯母さんは素敵な人だった」  母はそれがさっきの質問の答えだとは思わなかったかもしれない。喪服の母はちらりと私を見ただけで、それから二人とも黙った。母は母なりに何か考えているのかもしれない。最寄り駅に着くまでの間、私は車窓を眺めながらボーゼン湖のほとりで立つ伯母の姿を思い浮かべていた。 了
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