浮ついた気持ち

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浮ついた気持ち

 18歳で大学に入学して光臣と知り合った。しばらくして付き合うようになって結婚したのが25歳。新卒で保険会社に就職して勤続7年。後輩が育って仕事に少しでも余裕が生まれた29歳で男の子の「伊吹(いぶき)」を生んだ。産休・育休を取得して約1年。30歳という区切りの年に保育園も決まって仕事への復帰も出来た。時短で職場に復帰するのは少し不安もあったけれど、上司の理解はあったし、久しぶりに見た後輩の仕事ぶりは見違えるものだった。後輩に「羽田さんにいっぱい教わったおかげですよ」と言われて柄にもなく泣きそうになった。後輩とのジェネレーションギャップにめげずに指導し続けて良かった。旦那や義父母たちとの関係にトラブルもなく、私のこれまでの人生はいまのところ順調なのだと、この頃は信じていた。親友の話を聞くまでは。 「ねぇ、羽田くん職場新宿だよね?」 「うん。そうだけど」  親友の瑛美とは高校の頃からの付き合いだ。おっとりしている瑛美とサバサバしている私。最初は話のテンポ感が違い過ぎて苦手なタイプだと思っていたけれど、何故か私を慕ってくれた瑛美の傍にいるのは悪い気がせず、いつの間にか仲良くなっていた。同じ大学に進んで同じサークルに所属していた時は家族よりも一緒の時間を過ごしてきた。社会人になっても連絡を取り合い、光臣と結婚する時も友人代表としてスピーチをしてもらったし、関係は良好だった。社会人になってからはたまにある飲みの誘いの時はお互い仕事や家庭の愚痴を聞いたり、労い合ったり。私にとって瑛美と過ごす時間は必要な息抜きとなっていた。今もこうして出産した後はたまに光臣に子どもの面倒を見てもらって、瑛美と外食をする時間が育児の息抜きになっている。 「きっと見間違いだと思うんだけど……昨日さぁ帰りにすごくそっくりな人を見かけて……」  瑛美から聞いた光臣を見かけた場所は彼の通勤場所から離れた場所だった。光臣は仕事が終わったら真っすぐ家に帰ってくる人だ。今は伊吹だって幼いから尚更そう。遅くなる時は残業だとちゃんと連絡があったし、どこかに寄る時は場所を教えてくれていた。瑛美が光臣を見かけた昨日の夜は、確か残業だと連絡があったはずだった。 「……それで?」 「それで、誰か細身の人と歩いているのは見えたんだけど……その……ホテル街の方、向ってて……」 「は?」 「ごめん!夜遅かったし、きっと見間違いだよね?……なんか最近羽田くんと話せてないって聞いてたから……変なこと言ってごめん」 「そうだよ、見間違いだよ。昨日も残業って言ってたし」  製薬会社で社内システム業務をしている光臣は妊娠した頃から会社の都合で在宅勤務が減った。今は完全に出勤するようになって新事業の準備だか何かで残業も増えているようだった。それでも平日は毎朝伊吹を保育園へ見送ってくれていたし、休日には家事を代わってくれていたから、十分私は助けられていると感じていた。大学のサークルで知り合って付き合うようになってからもう10年以上の時が過ぎて、これまで裏切られたことなんてなかった。そんな彼が残業だと嘘を付いて郊外のホテル街に誰かといるなんて。そんな訳はない。 「そうだよね……本当にごめんね」 「別にいいって」  出会った頃から瑛美は心配性ですぐ不安を口にするから、私がいくらでも理由を付けて励ましていた。でも確かに光臣の残業が増えていることも、会話が前よりも減ってしまったことは事実でしかない。本当は瑛美の話を聞いて少し不安になっていたけれど、悟られないように気丈に振舞った。 *  瑛美の話を聞いてから私の中にはモヤモヤが住み付いていた。でも光臣に残業だと私に嘘を付いたことを直接問い詰める勇気はなかった。もし光臣が私を裏切るようなことがあっても、この生活を手放す覚悟は私にはまだない。ただこのまま知らぬふりをしてほったらかしにするのは気持ちが悪かった。  そうして光臣の動向を探偵に依頼して探ってみることにしたのだった。何もなければそれでいい。瑛美の見間違いの可能性だってある。「よくある依頼なんですよ」と慣れたように依頼を受けた探偵の山口さんから報告が返ってきたのはたった二週間後のことだった。会社を早退して待ち合わせた喫茶店で報告書を受け取って中身を確認する。証拠だと言う写真を見て背筋が凍った。ホテルへ向かう光臣の隣に写っていたのは。 「……伊織」  証拠の説明とか裁判を起こす場合の慰謝料の話とか、山口さんは思っていたよりもずっと丁寧に対応してくれた。でも私の頭は動揺と混乱で全くそれらの話を聞く余裕なんかなかった。 「――何かありましたらご連絡ください」  全く内容が頭に入らないまま山口さんの報告は終わった。山口さんが喫茶店を去った後も私はしばらくその場で佇んでいた。保育園へ息吹を迎えに行く時間になってようやく、かつて無いほど重く感じる腰を上げて、何とか足を踏ん張って喫茶店を出たのだった。
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