浮ついた気持ち

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 山口さんから報告書を受け取って保育園まで伊吹を迎えに行って、もはや無意識のような感覚で家までたどり着いた。食欲なんて無くて自分の晩御飯を作る気力もなかったけれど、伊吹の世話だけはサボる訳にも行かず、何とかベビーベッドで寝かせるところまで終わらせて、ソファに沈み込んだ。  伊吹は静かに寝息を立てている。夜泣きが少なくて助かる子だ。名前は伊織から漢字を取った。伊織みたいな良い子に育って欲しいと思ったからだった。「“弟バカ”だね」なんて私と伊織の姉弟仲を微笑ましく思っていた光臣は、少し呆れながらも賛同してくれたのだった。 「どうして……」  最愛の弟と最愛の旦那がホテル街に行っていた。それも私に残業だと嘘までついて。どうして。それ以外の言葉が思い浮かばなかった。怒りや悲しみよりも先に困惑が頭を埋め尽くしていた。いつから二人はそれほどの仲になっていたのだろう。いやただホテルに行っただけで、何かやましいことはないのかもしれない。でもそれなら嘘をつく必要なんてない。  確か二人が初めて会ったのは光臣との結婚が決まった25歳の時だ。光臣と付き合っていた頃はまだ伊織が中学生で、女子からモテるという噂を本人に聞いた時に少し嫌そうな顔をしていたから、私の恋愛話も嫌がるかなと思って光臣のことをほとんど教えていなかった。伊織が高校生になって彼女を紹介してくれるようになった頃に光臣との結婚が決まったから、私もすんなりと紹介できたのだった。 『この人、羽田光臣さん』 『……こんにちは』 『初めまして――』  初めて会う義理の兄となる男性に妙な緊張感を漂わせていた伊織のことを今でも鮮明に覚えている。少しの挨拶だけで伊織は自室に戻ってしまい、その後光臣は私の両親と話をした。「ちょっと人見知りしただけで良い子だから」と光臣に言うと「散々聞かされたから知ってる」と微笑んでくれていた。  ――あれから。翌年に結婚式をして、お互いの職場に近いマンションに引っ越しをした。実家から少し離れた所に住むようになったから、年に数回光臣と一緒に帰省した時くらいしか伊織との接点はないはずだ。それから何か変わったことなんて……。 「あ……」  思わず声が漏れた。世間が流行り病で大騒ぎした数年前。光臣の仕事は在宅勤務が中心になった。社内システムを担当しているだけあって光臣は自宅のパソコン環境を整えるのは趣味のようなもので、最新のガジェットを揃えるのに気合を入れていたように思う。そんな話を実家の両親に話した時に、大学生になった伊織の受ける授業が全てリモートになって訳が分からず困っている、という話を聞いたのだった。それで「光臣さんの手、借りられないかなぁ」と助けを求める母親の話を光臣に言ったら、快く伊織のサポートを受けてくれたのだった。  すっかり忘れていた。その時に伊織にお古のパソコンをあげて、便利なアプリだとか使い方だとか、光臣がたくさん教えてあげていたではないか。あの時の光景をただ弟が義兄と仲良くしている様を微笑ましく思っていた。たまにパソコンの調子が悪いと連絡があったようだけど、一緒に食事に行ったとか、どこかへ出掛けたとか、そういった話は聞いたことがなかったのに。もしかしてあの頃から……二人は私に隠れて仲を深めていたのだろうか。  でもそうなると。もしそうだと仮定するなら。二人がもし私には言えないやましい関係だとしたら……私が妊娠した頃からずっと、関係が続いているのだろうか。  妊娠している間に浮気をされるなんてよく聞く話が、疑惑であれ自分の元に降りかかるとは思ってもみなかった。出産が近づくにつれ、旦那である光臣の帰る時間が遅くなる日が増えていた。そんな分かりやすい兆候もあった。だけどお互い30歳という年齢が見えてきて、仕事で役職も就いて責任も重くなってきた頃だったから、本当にただ忙しいだけなのだと、相手の仕事を理解した気持ちでいた。何の疑いも持っていなかったのだ。 「はぁ……」  伊吹の静かで健やかな寝息しか聞こえない空間で、大人の私の情けないため息がただ行く宛もなく消えていった。
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