進行方向は黒 7

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進行方向は黒 7

 そのように、懊悩している時だった。目の前で突然、信号が点灯した。右側の電球が赤々と光り、止まれの合図を示している。ハッとし、信号を注視した。赤は機能していた。それでは、青と黄だけが沈黙しているのか。昨夜は光っていた黄色が。青とともに、今日は自分の前から姿を隠しているのか。  思わず、唾を飲み込んだ。ブレーキペダルに乗せ続けている右足にむず痒さを感じ、無意識に右手でさすった。夜暗に浮かぶ他家の遠い明かりが、いやに小さく見えた。  ――自分は、このまま家まで辿り着かないのではないか。一瞬、そのような馬鹿げた思いが頭をよぎった。そんなはずはない。ただ、青と黄の信号が消灯しているだけだ。しかし、夕方には確実に点灯していて。今は、不具合を起こしていて。  思考は堂々巡りになり、二度大きな咳払いをした。その間も信号は赤から黒、そしてまた黒へとおそらくは変じ、また赤に戻る、異様なサイクルを繰り返していた。止まれ、と言い渡されるばかりで進んでもよいという示しはなく、車の動かし方を忘れた人間のように、自分はただひたすら従順に停車するばかりだった。  時間は経過する。他に車は見えない。自分だけが、空間に取り残されていた。回り道は、避けたい。仕事で疲れている。明日も仕事がある。早急に、家に帰って寝なければならない。家に、帰らなければならない。  赤く光っていた信号が消灯し、信号機として役に立たなくなる。街灯と車のヘッドライトが何者の姿もない交差点を浮かび上がらせ、この場における自分の孤独を実感させていた。  息を大きく一つ吐いた後、ブレーキペダルから足を離すと、クリープ現象で車はゆっくりと動き始める。そうしてアクセルペダルに足を置いて圧をかけると連動して速度は上がり、交差点に支障なく突入した。信号機の下を通る時には若干強くペダルを踏み、加速した。その場から離れたかった。罪悪感とまではいえない、だがモヤモヤとした感情が胸の奥に巣食い、運転中に片時も離れることはなかった。  アパートの駐車場に車を止め、帰宅するとシャワーも浴びずに服だけを脱いで下着姿になり、電気を消してベッドに入った。食事も飲酒もしなかった。ただ、眠りたいと感じた。  肉体の疲労か、精神の疲労か、その両方か。横になると眠気はすぐに訪れ、意識は遠のいていった。今日という日を、自分は困憊のままに終えた。嫌な夢を見た気がしたが、翌朝には何一つ覚えてはいなかった。  翌日の夕方。通勤した自分の目前で、あの信号機はやはり通常通りに機能していた。夜の機能停止が、嘘のように思えた。
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