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ぎゅうなべ
文明開化に沸く明治初期、上総国とされる木更津県の農村に、とある夫婦がいた。
夫の六郎はとにかく新しいものが大好き。妻の煕子は六郎の新しがり屋にうんざりしていた。
「熙子、こっからは牛を食う時代だ。東京では『いろは』っちゅう店が人気だってヨ。今度食いに行くべ」
今、食卓には狸汁が出されている。仲間の田兵衛が狩りで獲り、分けてくれたものだ。
「あんた、牛は食うもんでねえ。畑を手伝ってくれる役牛だ。んなもん食ったら花子が怒っぞ」
熙子は無関心の様子。黒牛の花子はまだ若く、我が子のような存在だ。これから夫婦に生まれてくる腹の中の初子のためにも、花子の恨みは買いたくない。
「あんも問題ねえ。花子は恨んだりしねえヨ。牛の肉は滋養にいいと言われてんべ? 幕府があった頃も薬として重宝されてたし。知らねっかあ?」
六郎はどうしても牛が食べたいようだ。それをせねば満足しない。
「したっけ、あんた花子殺せんのけ? 花子殺して食えんのけ?」
熙子は曲げない。我が子のような花子に、牛を食ったなどと言えるはずもない。
「花子を殺すなんて話してねえべ。そいつらはちゃんと食うために育てられた牛だ。売ってるってこた認められてるっちゅうことだべ」
熙子は曲げないで語気を強める。
「あんた売ってるもんなら何でも買うんけ? 売りモンでねえ女も買う男だがんな?」
売り言葉に買い言葉で六郎は答える。
「そらおめ、向こうから誘ってきたらな。んな話はしてねえべ。牛の話をしてんだ。おめに食わしてやんべって言ってんのに、話逸らすな」
熙子は勘が鋭い。今の言葉でピンときた。
「六郎、あんた、松子と牛食い行ったろ?」
松子とは村に住む後家である。黒黒した髪が印象的な薄幸美人だ。
「んんな話はしてねど。おめもじきに臨月だかん、滋養つけれと話してんだべ。おらぁこれでも気ぃ遣ってんだ。おめの鈍さは本当おいね」
「ほう?」
「牛鍋はうめど。味噌と白葱が合うんだ。臨月近ぇおめは食った方がいど。山椒も入って身体もあったかくなる。これに酒を飲めば腹ん中の子も喜ぶど」
力説する六郎に、熙子はほとほと疲れてきた。
「あんたの子に弟や妹はいねえか。よそに子供作ってねえか」
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