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「きみ、手が……」
「あ、わかっちゃった? 今朝からね、左の指の先だけ、なんだか力が入らないの。ちょっと疲れてるのかしらね、私」
なんでもないことのように妻はまた笑う。
だが、男の顔はこわばったままだった。叫びたくなるのを必死におさえる。
きみには、まだ見えていないのか。
突然、世界のあちこちに出現した、黒い「何か」。
はじめは湧き水のように地面から噴き出し、やがてまわりの何もかもを吞み込んでゆく。その速度は定まってはおらず、一夜にして町ひとつが丸ごと消えたと思えば、いくらたってもその大きさを変えないときもあった。
男は、妻とともに、その怪異に遭遇した。
黒いそれに吞まれかけた彼女を助け出し、必死に逃げた。
逃げて逃げて、ようやくこの打ち捨てられた小屋まできたとき、これで助かったと安堵した。
が、その考えは甘かった。
それに触れた妻の身体を、じょじょに黒い色が浸食していることに気づいたのだ。
しかも恐ろしいことに、当の妻はまったく自分の異変に気づいていない。男がどんなに説明しても、黒くなんてなってないわよ、なにを言っているのと笑ってとりあってはくれなかった。
どうして。どうして、信じてはくれない。
こんなにも、はっきりと、俺には見えているのに。
それとも。
あの黒いものが、怖ろしい、おぞましいと思っているのは、俺だけなのか。
きみにとっては、おぞましくもなんともない、「なんでもない」ものなのか——。
ああ、けれど。
俺は怖い。きみが「黒」に呑まれ、いなくなってしまうのが。
だから毎日、俺は一番高い木に登って、あの黒い「なにか」を見張っている。少しでもこちらへ来る気配があれば、すぐまた逃げられるように。
でも……もう、手遅れなのだろうか。
「そんな怖い顔しないで。ほら、食べましょう」
妻は微笑んだ。
その半ばほどが「黒」に侵された顔で。
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