被忘春

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 『被忘春』の主人公は、若い絵師でした。季節の風に筆を溶き、四季に色付く花々を、わずか一枚の紙の上に、香りと共に閉じ込めて、それは見事に描きあげる、天の見初(みそ)めの絵師でした。彼の画を見たものは、皆口々に、花の匂い立つようだと、底も無く誉め称えました。しかし、ある年の冬、病が彼を襲いました。あらゆる自然の美しさを捉えては、心に伝えてきた彼の目が、その光を失ったのです。もう二度と、四季の彩りをこの目に見ることは出来ない。自分の絵師としての人生は終わりを迎えたのだ。と、悲しみにうち沈む彼の肌を、ふと撫でる香りがありました。それは、春に咲く梅の香でした。目を失った彼に、梅の精霊がその身を靡かせ、春の訪れを告げてくれたのです。絵師は、その香りが去る前に、懐から紙を取り出し、急いで描きあげました。それが彼の、最後の一枚でした。絵師はその日を限りに筆を埋め、もう二度と画を描くことは無かったのです。光を失い、夏も、秋も、冬も忘れた元絵師は、永い暗闇の時が降り積もり、次第に春も忘れそうになる度、最後の画を取り出して、その香りを嗅ぎました。そこには確かに梅の香が、春の夢の香が残っていました。  僕たちの演劇部で、この絵師を演じるに相応しい者は、もちろんあなたを置いて他にはいませんでした。誰も()は無かったことでした。しかし問題となったのは、物語の一種の象徴となる存在、梅の精霊の役でした。この役は、台詞が一切なく、ただ小さな仕草とわずかな表情のみで、この物語に命を持たせる必要のある、大変な難役でした。その役が僕に回ってきた時、背筋が凍るとはこのことかと実感するほど、喉の奥まで冷えかえって、とても真っ直ぐに前を向くことなど出来そうもありませんでした。しかし気の弱い僕は、自分には出来ませんときっぱり断ることも叶わず、結局この役を演じることになってしまいました。僕にはとても無理な役です。それというのも、僕が褒められてきたのは、声の通りや滑舌、あるいは抑揚。つまり全ては声だったのですから。声を出さない役柄で、言葉も無しに世界観を作り上げるなど、到底出来るはずはありませんでした。
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