被忘春

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 迷い、苦しみました。冬の夜更けの深い霧が、僕の内側に渦巻いて、現実と悪夢の境を濁らせました。出口の形をした大沼が、こちらを手招きするのを見ては、救いを求めて這いずり寄って、すぐに魂ごと絡めとられ、より深く、根まで蝕まれてしまう。梅の精霊を演じると決まってから、僕を待ち迎えたのは、そんな日々でした。考えるほどに分からなくなり、信じるほどに遠ざかる、あまりに深い霧に、淀むより他に術も無く、自分がこの役を演じきれる日など永遠に来ないとさえ思ったほどでした。  稽古では、あなたの演じる絵師が、日ごとに形を成していき、物語が力を持ち始めました。初めは稽古場の白い壁しか映らなかったあなたの瞳に、ある日風が吹き、その風に揺れる梢が見え、いつしか春が芽吹きだしました。しかし瞳の中の春景色に、梅が咲くことはありませんでした。僕の演じる梅の精霊は、いつまで経っても、そこにあるべき香りを身に纏うことはなく、ただ空虚に佇むだけの、全く不確かな存在でした。僕は、梅の精霊の心をまるでもって理解出来ていなかったのです。梅は、なぜ精霊にその身を変えて、絵師の元に舞い寄ったのか。なぜ一人の絵師の元へ、何のために香りを届けて、そうして絵師の描いた最後の画を見届けた後、静かに消えていったのか。僕は、理解も出来ぬものを演じられるほど器用な人間ではありませんでした。  あなたと直接触れあう機会を、僕はこの役で初めて得ましたが、それがかつて夢想したような、胸にときめく経験でなかったことは、言うまでもありませんね。僕は、演劇人生のうちで最も泥まみれた醜態を、最も憧れた人の前で晒し続けました。元より口数の少ないあなたは、僕の演技に是とも非とも言いませんでしたが、そのことが尚更、僕の頬を幼い血の色で染めたのです。いつも僕を褒めそやしてきた教員も、この時は何も言いませんでした。僕はいっそ、山の彼方に走る鳥影に紛れて、落日の向こうへ消えてしまいたい、そうして誰からも忘れ去られ、人知れず荒い野辺に倒れ、そのまま土に還りたい……と、そんな心地に溺れていくばかりでした。
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