被忘春

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 あなたは、覚えていますか。あれは二月の、大雨に煙る晩でしたね。(かみなり)の鳴るごとに、あなたの瞼の頂で、長いまつ毛が波立って、古びた公園の薄暮れ合いを、それは(きら)やかに照らしました。東屋(あずまや)の傘を打ちつける、空のうねりのその下で、途切れ途切れの香りを、お互いに探りあいながら、春の夢を僕たちは、共に演じましたね。  僕が演劇部に入ったのは、あなたに憧れたからだと、今に至るまで誰にも話したことはありませんが、きっと周りの者たちには、晴天の舗装道に走る亀裂のように、ありありと知られたことでしょう。あの頃あなたは大人びて、とても高校生には見えず、城に旗の靡くほど、物語の一幕を思わせる、僕たちの憧れでした。僕たちと言うのはつまり、あなた自身もお気付きだったでしょうが、沢山の女生徒たちが、あなたを眼差しで取り囲み、いつも青い吐息を洩らしては、たち昇る春の暖かみで、胸に花を咲かせていたのです。そんな中にあって僕は、僕などは、あなたの目にはきっと、遠い枯れ木の一枝に過ぎなかったでしょうね。それでも僕は、あなたに憧れて、あなたと同じ演劇部に入り、あなたの精悍な瞳と、そのすぐ上を鋭く通る眉と、頭の頂上から二つに分かれ、真っ直ぐに頬骨のあたりまで伸びる黒髪を、いつだって遠くから、人影越しに眺めていたのです。あなたはまた、演技の腕も確かで、演じるのはいつも主役。それもとびきりに華やかな、王子様の役が殊に似合いました。  翻って僕は、とても人前に出るなど、本当は出来ない性分な上に、容姿も地味で、全くどうして演劇部などに入ってしまったのかと、思わない日はありませんでした。あなたへの憧れ一つを後ろ手に抱き、軽々しくこの世界に足を踏み入れた自分の浅ましさを、何度となく呪う一方で、しかし演劇を始めて、自分の見知らぬ自分に出逢えたことは、一つの幸いでもありました。普段の話し声は、いかにも小さな僕ですが、舞台の上で声を張ると、これが不思議とよく通り、滑舌の明瞭なことと合わせて、台詞回しが大変に評価されて、何とも気恥ずかしくなるほど、よく褒められたものでした。あなたのように華々しく、明るみに袖を広げることは滅多とありませんでしたが、それでも枯れ木なりに、懸命に水を吸い、次第に花が咲き始めたように思います。何をしても特別上手にはなれなかった僕にとって、生まれて初めて、人並みを抜いて得意だと言えたのが、正に演劇だったのです。  それだけに、その演劇での挫折は、僕を憂いの谷底へ惑いもなく突き落とす出来事でした。演技だけは人より二歩も三歩も前を行くと、それがいつしか僕の心の宿となり、揺れる若木の支えになっていたために、ある日突然それを失い、寄りかかるものもなく、この細い体がどれほど無様に倒れ落ちたか、人が知れば笑うことでしょう。演劇を始めて、緩やかな坂を一足ずつ登るその最中(さなか)に、突如として、途方もない絶壁が立ち塞がったのです。その壁こそが、今でも心の奥底に、深い香りを刻み付けて離れない、『被忘春(わすらるるはる )』という演目でした。
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