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生まれてから、今まで、かすり傷さえつけたことが無いんじゃないだろうかと思うぐらいに、白くて細い指の背で、ケイコは、擦り切れた木のカウンターを、ドアをノックするように、軽快に叩いてみせた。
「ねえ、マスター、結構、いい木使ってるよね、高かったんじゃないの。」
「ケイコちゃんに、木の良し悪しが、解るんだ。でも、先代のマスターから、そのまま、この店を引き継いだからね、どうなんだろうね、僕には解らないよ。」
「絶対そうだよ。だって、音が違うもん。こうやって、コンコンって叩くでしょ、そしたら、ヨーロッパ映画に出てくる古い洋館のドアを叩く音だもん。ベニヤ板じゃ、こんな音、出ないよ。」
隣に座っているマリコが、プッと噴き出した。
「あのさ、ケイコ。ベニヤ板じゃないことぐらい、あたしだって解るよ。っていうかさ、あんたが、ヨーロッパ映画見たなんて話聞いたことないんだけど。」
「無いけどさ。そんな雰囲気じゃん。」
マリコとケイコは、高校の同級生なのだが、二十歳になった時に、ふたりでお酒を飲んでみたいと、初めて入ったのが、マスターのお店だった。
それ以来、お店の雰囲気が気に入ったのか、よく、ふたりで店を訪れているのだ。
マスターのタクミは、この店を継いでから、5年ほどが経っていた。
先代のマスターの時は、昭和レトロな、大人のお酒を楽しむバーとして営業していたが、タクミに変わってからは、駅前とは言え、学生の多いこの街では、軽食なども食べることが出来る庶民的なお店としてやっていかなければならなかったのであるが、タクミは、どちらかというと、そっちの気楽な雰囲気の方が、自分に合っていると思っている。
とはいうものの、内装は、昔のままなので、昔からのお客も、新しいお客も、静かに飲める、大人の居場所としての存在意義は、まだまだ健在であるようではある。
「ねえ、マスター。どうして、あたしには、彼氏が出来ないんだろう。ねえ、どう思う。」
「好きな人とかいるんですか?もし、いるなら、ケイコちゃんから、声を掛けてみてもいいんじゃないかな。」
マスターは、振り返って、そう言ったら、また、壁を向いている。
「いいなって思う人はいるんだけど、でも、やっぱり、あたしだって、女なの。女の子から声を掛けるって、そんなの出来ないよ。」
「始めから、そこまで考えなくてもいいんじゃない。軽いノリでさ、友達の延長みたいな感じで、デートしても楽しいよ。」
マリコは、そう言ったあと、スクリュードライバーの残りを飲み干して、「マスター、お替り。」と、壁に向かっているマスターの背中に声を掛ける。
「うん。解ってるよ。楽しいだろうなってこと。だって、お休みの日に、1日中、部屋にいたら、あたしだけ、取り残されてるって感じて、寂しくなっちゃうんだよね。『あたし、ここにいるよーっ。』って、窓を開けて叫びたくなるの。誰も、あたしのことを必要としていないなんて、悲しすぎるよ。」
「ケイコ、少なくとも、あたしは、ケイコの事を必要としてるよ。」
マリコは、ケイコの肩を抱き寄せた。
「マリコ、ありがとう。でも、あたし、男の人に、必要とされたいのよ。女として、男に必要とされたいの。」
「おいおい、メスとして、オスに、必要とされたいってことだよね。」
「バカヤロー。そうだけど、もっと、ソフトに言ってよ。っていうかさ、誰かに愛されたいな。」
最後の、「たいな。」の部分が、自分でも感じるぐらいに、弱々しい声になってしまって、ケイコ自身、可笑しくなって、吹き出しそうになった。
「マスター、お替り。」
ケイコは、そう言って、カウンターを、細い指で、コンコンと叩いた。
「あのさ、マスター。前から気になってたんだけど、何か、聞きにくい雰囲気だったから、そのままにしてたんだけど、聞いてもいいかな。」
「何のこと?」
「ほら、あそこに絵が掛かっているでしょ。あの絵って、マスターが描いたの?」
と、ケイコは、カウンターの左の壁に掛けてある額縁に入った絵を指さした。
そこには、50センチ四方ぐらいの大きさの金色の額縁の絵が掛けられている。
ただ、奇妙なことに、キャンバスは、真っ黒に塗りつぶされていた。
「いや、僕の描いたものじゃない。」
「じゃ、誰が描いたものなの?」
「誰だったかな、昔の事だから、思い出せないよ。」
そのマスターの言葉を聞いて、隣に座っていた30歳ぐらいの男が、「どうも、たまに、このお店で会いますよね。僕は、クワバラと言います。」と声を掛けて来た。
ケイコも、マリコも、クワバラの事は、顔だけは知っていいたが、あいさつしたのは、今日が初めてだった。
クワバラの隣には、無口そうな、細い青年が座っている。
「あの絵、気になるでしょ。実は、僕たちも、何故、真っ黒なのかって、友達と、いろいろ想像してるんですけど、まだ、結論が出ていないんですよ。」
「それなら、直接、マスターに聞けば、早いじゃないですか。」
「そりゃ、聞きましたよ。でも、あの絵についてだけは、かたくなに、教えてくれないんですよ。」
「教えてくれない。どうしてなんだろう。」
「マスターの昔の彼女が描いたってことだけは、解ってるんですよね。」
「ええっ。マスターに彼女いたの?ええーっ。初耳。ねえ、どんな人だったの?可愛かった?芸能人で言ったら誰に似てる?そうそう、ねえ、今は、マスター、彼女いるの?」
ケイコは、食いつくように、カウンターに身を乗り出した。
「ちょっと、ケイコさ、マスターの彼女の事になったら、急に、どうしたのよ。ひょっとして、マスターに気があるとか。」
「別に気があるとかじゃないけどさ、気になるじゃん。っていうか、マスターに彼女いないんだったら、あたしが彼女になってあげようか。」
「彼女になってあげようかって、あなた、自分から、ちゃんと言えるじゃない。」
「ほんとだ、マスターになら、言えたね。でも、マスターが、あたしのこと好きじゃなかったら、彼女になる意味ないしさ。彼女って言うか、あたし、誰かに愛して欲しいの。人に愛されるって事、最近、気が付いたんだけど、奇蹟だよね。世の中に、たくさんの人がいるけどさ、あの人のなかで、何パーセントの人が、誰かに愛されていて、何パーセントの人が、誰にも、愛されていないんだろうって事考えるんだ。」
「ケイコ、あんたさ、そんなこと考えてたら、頭、変になっちゃうよ。」
マリコが、ケイコの顔を覗き込んだ。
そして、「マスター、それで、彼女はいるんですか。」と、今度は、マリコが、マスターに聞いた。
「彼女ですか。いや、いませんよ。」
マリコは、ケイコに、小さなガッツポーズを見せて、「元カノとは、もう、別れたんですよね。」
「まあ、そんなところです。」しばらく、時間があって、そう返って来た。
すると、ケイコが、すかさず言った。
「浮気やわ。マスターが浮気したんやわ。大体、男と女が別れる時って、浮気が原因らしいよ。そんなこと、週刊誌で読んだことあるわ。始めは付き合いたいから、愛してるーとか、可愛いーとか、そんな甘いこと1日中言っといて、いざ、彼女になったら、他の女に、手を出したくなるらしいじゃん。マスターって、ひどいわ。」
「ケイコ、まだ、浮気って決まった訳じゃないんだし。」
「絶対に、浮気やわ。ほら、マスターの鼻の横に、ホクロあるでしょ。あれ、浮気ボクロやわ。そんなこと、週刊誌に書いてあったと思うわ。マスターが、そんなヒドイ人やとは、知らなかったわ。最低やわ。」
「ケイコ、、、、。」「ケイコさん、、、。」
マリコと、クワバラと、友人は、ケイコのテンションに驚いた。
マスターは、ゆっくりと振り返って、「僕は、浮気はしてませんよ。」と、穏やかな口調でケイコに言った。
「なんや、マスター、今の話、聞いてたんじゃん。後ろ向いて、何かしてるなと思ってたから、聞こえてないのかなーって、思ったけど、やっぱり、聞こえてたんやね。ごめんね。」ケイコのツッコミが入る。
「そうそう、それで、絵の話は、どうなったの。あの真っ黒な絵は、何を描いたの?何かの意味があるのかな。」
マスターは、壁に向いたまま、話を聞かなかったフリを決め込んでいる。
「いやあ。僕たちの想像では、こうなんですよ。黒っていう色は、他のどんな色よりも強い色ですよね。すべての色を消してしまうような、というか、飲み込んでしまうような色。そこが、ポイントなんですよ。元カノが、マスターに絵を贈ろうとしたんですよね。そこで、絵が趣味なら、お店に、もっと、絵が飾ってあっても、不思議じゃない。でも、飾ってあるのは、あの1枚だけ。詰まりは、元カノさんは、絵は、頻繁には書いてはいないけど、マスターには、贈りたかった。となると、マスターの顔の絵だと思うんです。なので、あの黒の絵の具の下には、マスターの顔の絵が描かれている。でも、何かの理由で、その顔を、真っ黒に塗りつぶした。そこの理由が、まだ、結論が出ていないところなんですがね。」
「うん。やっぱり、浮気やわ。書き始めた時は、愛してたけど、浮気をしたら、憎さ100倍になって、黒で塗りつぶした。そういうことじゃないの。」
「ケイコ。マスターが、浮気してないって言ってるんだから、それを、信じてあげようよ。」
「でも、何かを消したかったという事は、言えるかもしれませんよね。」
クワバラの友人が言った。
「あの黒の絵の具を削ったら、マスターの般若のような、鬼の形相の絵が出てきたりして。元カノは、その非道なマスターを知ってるけど、それを隠しておいてあげるっていうメッセージだったりして。、、、、ひょっとして、マスターが人を殺した?それを、元カノが、偶然、見てしまった。でも、愛してるから、それは、誰にも言わないわよっていうメッセージ。」
「それなら、わざわざ、絵にしなくても、知っているという事実だけで、マスターを、元カノの言いなりにすることもできるんだし。」
「いいえ、女は、その計画に、確信が欲しいものなのよ。絵を飾っておくことで、毎日、毎日、マスターを脅迫してるの。」
「それなら、あの絵の下には、マスターの般若じゃなくて、殺した女の、あ、いや、男かな、、、詰まりは、殺した人の顔が描かれているのかもですね。」
クワバラの友人とマリコも、マスターを悪者にしたいようである。
「ねえ、クワバラさんたちも、また、ここで、お会いしましょうよ。それで、黒の謎を考えませんか。」
「そうですね。これも何かの縁ですし。それに、僕たちも、このお店が好きなので。言い換えると、マスターも好きなんですよね。」
「それは言えますよね。あたしたちも、マスターの魅力に惹かれて来てるのかもしれません。」
「そしたら、次回に持ち越しね。マスターが、人殺しか、浮気者か、、、あ、マスター、あたしもマスターの事が好きですからねー。」ケイコが、嬉しそうに、マスターの背中に話しかけた。
そんなことがあった、2日後。
ケイコは、休みということもあり、マスターのバーに、開店1時間前に行こうとしていた。
普段は、パンツにシャツなんだけど、ちょっと冒険して、ワンピースにしたものの、ノースリーブが、何だか、恥ずかしい。
「あたしって、マスターのお店の常連さんだもんね。1時間ぐらい早く行っても、受け入れてくれるよねー。」
1週間に、2、3回は、通っているのではあるが、ケイコは、10年来ぐらいの常連さんであるかのように、店のドアを開けた。
「あれ、真っ暗。うわっ、びっくりした。マスター、どうして、電気点けてないの?」
マスターは、カウンターに座って、ぼんやりと、壁を見つめていた。
「ああ、ケイコちゃんか。だって、まだ、開店前だし。ちょっと、考え事しててね。」
ケイコは、マスターの隣に座った。
「あ、ひょっとして、元カノさんの事を考えてたんでしょ。ほら、黒の絵を見てるし。」
「うん。実は、そうなんだ。ケイコちゃん達が、一昨日、話してたでしょ。今まで、ちょっと考えるのを止めてたけど、あの話で、また、絵の事が気になりだしたって言うか。普段の明るい部屋に黒があると、異様な色に見えるけど、光の無い、真っ暗な空間に黒があれば、そこでは、黒の本来の存在意義が生まれるのかもしれないと思ったんだけどね。実際は、暗闇の中に、黒があっても、まったく見えないし、気が付かないって分ったよ。でも、黒は、見えなくてもそこにあるんだよね。在ると思えば、在るし、無いと思えば、無い。」
「何か、禅問答みたい。」
「でもね、何故、黒なのかっていう理由は、ハッキリしてるんだよ。僕だけが知ってるんだ。誰にも話したことがないんだけどね。でも、ひょっとして、みんなが言うように、僕の知らないところで、黒に意味を持たせたんじゃないかって、そんなことを考えてしまったんだよね。でも、やっぱり、黒に意味は無かったよ。」
「もう、何か、もやもやするわ。いっそのこと、元カノさんに聞いてみたらどうですか。」
「そうしたいけど、死んでしまったんだよ。」
「あ、ごめんなさい。」
「5年前になるかな、店がオープンする前ぐらいの時期だよ。ガンで死んじゃったんだよ。その1年ぐらい前かな、シズカって言うんだけど、絵を描きたいって言いだしたんだ。でもね、実は、シズカは、目が見えなかったんだ。生まれつきね。だから、絵を描くってシズカが言った時に、何を描くのかなと、ある意味、興味があったんだよね。でもさ、僕とシズカは、目が見えないっていうことなんか、どうでも良かったんだ。というか、それが僕たちの普通の日常だったからさ。だから、僕が、シズカの為に、画材を買いに行った時、わざと、黒1色しか絵の具を買わなかった。僕としては、冗談のつもりだったんだよね。」
マスターは、ケイコに、話をしながら、当時の記憶をたどっていた。
「あのねえ。絵具が、黒だけって、どういうことなのよ。」シズカの声が、記憶の中で聞こえてくる。
「だって、色が解らないんだろ、色んな色があっても、意味ないでしょ。」
「あ、今、世界中の目の見えない女性を敵に回したよ。」
「冗談だよ。」
「解ってるよ、そんなこと。でも、面白いね。普通は、色んな色を組み合わせて、色んな色を塗り重ねて、1枚の絵を描くんだよね。ねえ、考えてみたらさ、1色だけしか使わないで絵を描いた芸術家っているのかしら。」
「どうかな。見たことないね。」
「じゃ、あたし、1色で描く。まだ、誰も書いたことのない絵を描いてみせるわ。」
絵を描くという事は、どういうことだろうかと思う。
何かを表現したい。
そう思った時に、人は筆をとるのかもしれない。
しかし、シズカは、何を表現しようとしているのだろうか。
黒1色で何かを表現することは、出来るのだろうか。
目の前に、1枚の白いキャンパスがある。
そこに、これから、黒の1点を描きこもうとしている。
何も無いところから、何かを生み出したい。
そう思う心が、芸術の種であるのだろう。
それが、傑作なのか、駄作なのか、意味があるのか、無いのかは、解らない。
でも、芸術は、そこに妙味がある
シズカも、何かを生み出すことで、自分が自分であることを証明したかったのかもしれない。
自分が、ここにいるよと。
そして、あたしも、存在していることに意味があるよと。
「ねえ、何を描くの。」
「うん。あなたの顔を描くわ。」
「ちょっと待ってよ。僕の顔を、黒1色で描く訳?」
「だって、あなたなのよ、あたしに黒い絵の具しか渡さなかったのは。」
「それは、そうだけど。なんか、嫌だな。」
「罰が当たったのよ。」と言いながら、ケラケラと笑った。
シズカは、いつも、目尻を下げて、嬉しそうに笑う女だった。
シズカは、白いキャンパスに、色んな線を引いていたが、気が付くと、全面真っ黒に塗りつぶされた絵が出来上がっていた。
「これで完成?僕の顔って、黒1色なのかな。っていうか、顔、どこ?」
「見える人にしか見えないの。ねえ、また、完成したら、プレゼントするね。」
そう言って、シズカは、そのキャンパスを、家に持って帰った。
そんな記憶を、辿りながら、シズカの事を思い出していた。
「マスター、ひどい。目の見えないシズカさんに、黒の絵の具しか渡さないなんて、性格悪すぎるわ。」
「だから、恋人同士の冗談だったんだって。」
「でも、シズカさんも、黒1色って解ってるなら、この黒にメッセージを込めても不思議じゃないよね。マスターへのメッセージ。」
ケイコは、店の電気をつけた。
「あれ。これ、黒1色じゃないよ。」ケイコが、絵を見つめながら、ゆっくりと自分の見たことを確認するように言った。
「黒しか見えないけどなあ。」
「ねえ、ちょっと、絵を壁から外していい?」
そう言って、壁から絵を外して、間近から絵を見ると、黒1色の絵の隅っこに、赤い絵の具が5ミリほど、何かの間違いで筆が当たったのかと思うぐらいの感じで付いている。
「そういえば、そうだね。」
「シズカさんは、赤い絵の具も持ってたんだ。」
「おかしいね。黒しか持ってないはずなんだけど。自分で買いに行ったのかな。」
「ねえ、マスター。額縁を、外してもいい?」
と、ケイコが聞いた時は、もう、裏の蓋を開けていた。
そして、「あーっ。」と、ケイコは、叫んだ。
「マスター。裏にも絵があるよ。」
「ええっ、ちょっと、見せて。」
キャンバスの裏には、もう1枚キャンバスが張られていて、何かの絵が描かれている。
「埴輪?」ケイコが首を傾げて、絵を見ている。
マスターが、絵を覗き込むと、白いキャンバスに、丸い顔の輪郭と、目と鼻と口が、丸と棒で、描かれていた。
「これ、マスターの顔だよ。きっと。埴輪みたいだけどさ。っていうか、シズカさん、他の色の絵の具も持ってたんだ。いえ、買いに行ったのよ。」
「でも、口が緑で、目が赤って、、、。」
「そういうイメージだったのよ。シズカさんには。シズカさんが、書きたかったのは、この絵なのよ。きっと、そんな気がする。」
「それにしても、もっと、うまく書けなかったものかね。」
「どうみたって、埴輪だもんね。どこかの古墳の資料館にでも展示したいぐらい埴輪だよ。でも、ゆるキャラって言うのかな、ちょっと、可愛いかも。」
「でも、埴輪。」
「あれ、何か書いてあるよ。、、、、『愛してくれて、ありがとう。』だって。」
「この下手な字は、シズカだよ。」
「もう、マスターったら、ほんと、性格悪いね。でも、あたし、シズカさんの気持ち、すごく解る。この世で、誰かに愛して貰えるなんて、奇跡なんだよね。その奇跡を、マスターと出会ったことで、シズカさんは、感じたんだよ。そして、この世に存在してもいい理由を見つけた。そう思うな、あたし。」
マスターは、しばらく、その絵を見つめていた。
「ケイコちゃん。ありがとう。この絵を見つけてくれて。でも、もし、ケイコちゃんが、見つけてくれなければ、この絵は、僕に、一生見られることなく、どこかに行っちゃう運命だったんだよね。何考えてるんだよ。」
「ほんとだね。でも、見つけられなくても、マスターなら、表の一面黒の絵だけでも、シズカさんの『愛してくれて、ありがとう。』にたどり着けたと思う。きっと、死ぬときに気が付くのよ。こういうことは。」
「ちょっと待ってよ。死ぬときに気が付くって、僕は、死ぬまで、黒の絵に憑りつかれなきゃいかないのかな。僕だって、新しい恋をしたいんだよね。それが普通でしょ。」
「ほんと、マスターは、性格悪いね。」
そう言ってマスターを見ると、指で絵の具の線を追いながら、愛おしそうに埴輪を見ていた。
「マスターも、愛されてたんだね。奇蹟だよ。」
「そうかもしれないね。最高の奇跡だったんだね。それにしても、絵、下手だよね。」
「だから、性格悪いって言うの。」
その夜、お店には、埴輪の絵が掛けられていた。
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