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あなたのくれるすべてのものを
ふたつ上の姉の沙綾の口癖は『これどうぞ』だった。
綾葉、どうぞ。
綾葉、さきにいって。
綾葉、こっちが大きいからあげるね。
綾葉、この色の靴、欲しいって言ってたでしょ、どうぞ。
『どうぞどうぞどうぞどうぞ』
そう言って、姉がなんでもくれた。
私が欲しいと言わなくても、
『綾葉の顔を見るとわかるの、これが欲しいって顔にかいてある』
そういう流れで私にくれようとする。
『わあい、ありがとう』
姉というイキモノはそうやって妹を甘やかすものなのだと思い、私はありがたくいただいた。
くれるものは何でも何でも。
*
姉が高校2年生にして初めてできたカレシを家に連れてきた。
付き合い始めて3ヶ月目のころ。
学校からの帰宅時に玄関でばったり顔を合わせた私に
「真野賢人です」
と彼は名乗った。
そして白シャツの首元のボタンを2つはずし、私と姉のどちらにも視線を向けて「暑いね」と言った。
そうね、と答える姉の制服のリボンが揺れた。
彼は右手で白シャツのボタンをはずす時も、左手は姉と手をつないだままだった。
柔らかく握り合っていた指先を、そっと互いに撫でるのが目に入る。
ふたり目を合わせて微笑み合う姿も。
「はい、暑いですね」
そう答えて、私は2階へ駆け上がり自室に入った。
「私の部屋にいるからねー」
姉の声が追いかけてくる。
うん、と小さく頷いてみた。
*
ベッドにポスンと飛び込んで「暑いですね」と呟く。
暑いですね、暑いですね、暑いですね。
白いシャツの首元がぶわっと思い出されて、慌てて顔の前で手をひらひらさせる。あの人の首元を視界から追い出すように。
エアコンのスイッチをピッと押して、ごおおおっと強い風を顔に浴びる。ほてった顔がすうっと冷えた。
*
隣の姉の部屋から何か喋っている声が聞こえていたのは始めの20分くらい。それから静かになって。──私は携帯端末で音楽を流した。
大きな音で。
なんとなく。
大きな大きな音で。
それから2時間くらいして、隣の部屋のドアがカチャリとあく音がした。音楽の音量を下げる。楽しそうに話す声。
「ふふ、じゃあね、また明日学校で」
姉の声と「うん、また明日」という返事が聞こえた。
パタパタとふたつのスリッパの音が階段をおりていき、やがて消えた。
あの彼は、玄関を出て行ったようだった。
そっと部屋を出て階段下を覗けば、姉が玄関から彼を見送っていた。
ばいばい
小さく手を振っていた姉が、くるりと振り返った。
頬を赤くして目を細め、口元はだらしないくらい緩んでいた。
ぱちんと目が合うと、姉は目を大きくして「あ」の形に口を開いた。
「見てたの? やだ。はずかしい」
「見てないよ。音楽聴いてたし」
「そう? ああ、大きな音がするねって言ってたかな」
どこかうっとりとした目をくるりとまわし、目の前にいたカレシを思い出すように呟いた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
とととっと階段を駆け下りて、制服のボタンがふたつあいた胸元を指さした。
「リボン、とれてるよ」
「え?」
「リボン、はずしたの?」
「もう、綾葉、余計なこと言わないの!」
いつも優しい──なんでも私にくれるとても優しい──姉が私に向かってぷんと頬を膨らませた。
ぷいと横を向いた首筋に赤い跡。
肩までの髪を耳にかけているから、それがよく見えた。
「髪、縛ったら? 暑いじゃん」
私はそう言って、姉の髪をぐいとくくる。
「あ、涼しい」
どこまでも明るく穏やかな顔に戻った姉は、私が差し出したゴムで嬉しそうに髪を結わえた。
*
今どき。
それくらいのことはよくあることだと思うのだけど、うちの親は違った。
「今日、誰がきたの?」
まずは私に聞いてきた。
「お姉ちゃんのカレシ」
「そう。やっぱり。沙綾がこたえないから」
「いい人そうだったよ、カレシ」
「そう。ふうん、そう。でもそういうのはお母さん嫌いなの。わかる? 綾葉は、わかるわよね」
わかるわよね、と何度も言い聞かせてくる母は眉をぐっと寄せていた。この顔になったときは反対はできない。
聞いてくるだけで、母の気持ちは決まっている。
「ん」
肯定も否定もせずに私は相づちをうった。
そして、何をしていたのかなんてはっきりしらないけどね、と前置きをしてから。
「お姉ちゃんの部屋、静かだったよ。真剣に勉強でもしてたんじゃないの?」
姉をかばうように母に言った。
『静か』という、意味などどうとでもとれる言葉で。
かばうように。
2階で姉が聞き耳を立てているのがわかった。
息を潜めて、懸命に耳をそばだてている姉の姿が目に浮かぶ。
「いいなあ、私もカレシがほしいなー」
大きな声を出してみた。
苦虫をかみつぶしたような顔の母に聞かせるためではない。
──姉に聞こえるように。
よくよく聞こえるように。
*
母から1ヶ月はカレシとふたりで会うのを禁じられて、姉は元気がなくなった。
ごはんを少ししか食べなくなったし。
おやつなんてまったく。
ただ私が買ってくるプリンだけは食べてくれた。
喉をつるりと通るのだ、と言って。
「そう。食べられるならよかった」
「ありがと、綾葉。賢人くん、連絡もあんまりくれなくなって。もう好きじゃないのかなあ……」
か細い声で顔を曇らせた姉に「でも、カレシ、いいなあ」と、もう一度呟いてみた。
*
姉が私に、どうぞ、と言ったのはそれから数日後だった。
そして。
私の携帯端末に、姉のカレシだった人から連絡がきた。
私の姉は優しくて。
欲しいと口にはしなくても、私の欲しいものをくれる。
なんでもかんでも。
私の初めてのカレとなった賢人くんという、姉の元カレでも。
*
どうぞ、どうぞ、どうぞ、
姉のその言葉こそ、私の欲しいもの。
今日も私は、その言葉をもらう。
とても上等の宝物のような、その言葉を。
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