黒い天使の誘惑は

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恋人にデートをドタキャンされた。 震える手で、「悪い」の二文字が黒く沈んでしまいそうな画面に触れる。 動物が好きで動物病院を開業したばかりの彼が多忙を極めるのは、命を扱う仕事だから致し方ない。だから私も、返事を「了解」の二文字で済ませ、大人しく尻尾巻いて引き下がる。待て状態だった聞き分けの良い健康で従順なワンコは、尻尾をだらりと垂らした。 待ち合わせをしていた、かき氷の有名なカフェはガラス張りで、流れるたくさんの人に紛れて、目的を失い意気消沈した女が一人映り込んでいる。 「なーなー」 数メートル先が見通せないほどの人の行き交う繁華街を見やると、すべてが色を失ったように感じられた。ふいに私の手の甲を柔らかい羽がくすぐり、大きくため息をつく。 「なあーって。お前、暇ならオレ様と遊べ」 「上から目線だから却下」 「もういい加減オレ様のものになったらどうだ」 「私はモノじゃない」 「じゃあオレ様がお前のモノになってやる」 「……あのねえ」 慣れないハイヒールで足下をぐらつかせながら、今から人波を泳ごうとする私の傍らに、カラスの濡れ羽色をした艶やかな羽を背負った天使がいる。 私はカフェの窓ガラスをもう一度確認した。けれどやはりそこには意気消沈した女が一人いるだけだ。でも、私の目の前には、全身真っ黒な天使がいる。 人間だったら高校生くらいだろうか。生まれたての赤ん坊のようなきめ細かい肌に、長く多い睫毛の下からは、うるうる、クリクリとした漆黒の瞳が二つ覘かせている。それにサクランボのように紅くぷっくりとした唇。それらがバランス良く位置についていて、ドラックストアの陳列棚にある赤ちゃん用おむつのパッケージモデルの子を遙かに凌ぐのではないかと思えるほどの、ふわふわな顔面力。 「会えない男なんてやめとけやめとけ」 容姿こそ天使の名にふさわしい、浮世離れした可愛らしさを持ち合わせているけれど、その口から流れ出る言葉だけチグハグで一瞬言葉の出所を見失ってしまう。 「あのさ、その言葉遣いどうにかならない?」 「は? オレ様に指図するわけ? 天使の誘惑初心者研修で腕を磨いたオレ様に向かって?」 「え、なに……? 天使の、誘惑? 初心者研修?」 一体、天使はどんな研修を受けているの。 「おう。オラオラ系やオレ様系がダントツで人気があると習った」 オラオラ系にオレ様系。ちょっとなんか、それって。 「時代遅れ……」 「――っは! 恋愛初心者がぬかせ」 「そっちこそ初心者天使じゃん! しかも真っ黒!」 「おい! 黒天使をナメてっと痛い目にあうぞ」 「へっへーん! そんな凄んでも可愛いから全然怖くないよー」 「ぐぐぐ、おにょれえ!」 バサバサと大げさに羽の音をたてて空へと舞い上がった天使。 弾みで落ちた一本の羽を拾い上げると、指先でクルクルと回す。なんて綺麗な黒い羽。 「ふふ、おにょれって」 次に空を見上げたときにはもうその天使の姿は無かった。
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