老いた過ち

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「大丈夫?もっとゆっくり歩かないとさー」 「大丈夫大丈夫。これくらい運動しないと、赤ちゃんも退屈よきっと」 俺は車道側を歩き、細心の注意を払って妻を見やる。妊娠5か月。お腹も大きくなり出して、経過は順調だ。 平日は仕事に行っているため、普段妻がどんなふうに日々を過ごしているかわからないが、本当に心配だ。彼女は我慢する癖がある。 「にしても、今日はいい天気だね。」 「そう、だね。」 「もう、会話に集中してよ。お腹しか見てないじゃない。」 「いや、だって、心配だし。」 情けないと思いつつもやはり心配が勝る。赤ちゃんのことも、赤ちゃんを抱える妻のことも。そんな思いを見透かしているのか、彼女は俺の顔を両手で挟んだ。 「こっち向いて!ふふ、不安そうな顔、大丈夫よ。我慢はしないわ。何かあったらすぐ言うから。」 「ならいいんだけど」 彼女はそのまま俺の手を掴んだ。 安心させるかのように。 病院からの帰り道。 いつもはバスに乗って来ていたが、今日は買い物ついでに歩いてきたのだ。 交差点で立ち止まる。信号は青だが、途中で赤になって焦ってもよくないので、一旦ここで二人の足は止まった。 「そう言えばお義父さんからおもちゃとか頂いていたよね?」 「まだ早いって言ったのにな。初孫だし、どんだけ楽しみなんだよって。」 「いいじゃない。助かるわ、すごく」 「まあ、そうだけどさ、あ、青だ。」 カッコウ、と信号が鳴いている。俺たち以外に横断者はいなかった。 手をつなぎ直して大通りを渡る。 と、横断歩道の真ん中まで歩いたとき、右から老人が運転する車が速いスピードで近づいてきた。 停止線で止まるそぶりは見せず、助手席に座る青年が慌てる様子がスローモーションで目に焼き付いた。せめて、と妻の前に立ち手を広げると、横に押される力を強く感じた。思わず、歩道に身体が投げ飛ばされる。 それは、一瞬だった。 潤んだ瞳の彼女が俺を押した姿勢をしていた。 老人の運転する車が視界に入り込み、彼女を消し飛ばし、そのまま少し進んで止まる。 そこで時が止まった気がした。 俺は地面にぶつかった衝撃で痛めた身体を起こして、彼女が飛ばされた場所まで走って向かった。彼女は頭から落ちたみたいで、綺麗な顔は潰れ、即死していた。 俺はそのまま彼女の血だまりに崩れ落ちた。体躯を抱きかかえ何度も名を呼んだ。 どれくらい時間が過ぎたか、車から運転していた老人を含む家族の影が俺にかかった。周りを見渡せば、警官もいる。 「本当に、申し訳ございません!謝っても許してもらおうとは思っていません!本当に、本当に、申し訳ございません!」 助手席に座っていた青年がアスファルトの固い地面に手と膝をつき、頭を何度も打ち付ける。後ろに乗っていたらしき若い女性も腰を90度に曲げ、頭を上げない。 「やめてください。」 かすれた声でそう言うも聞こえていないのか、聞こえた上でか、謝るのをやめない。 その中でも目についたのは運転をしていた老人の様だった。 「おい、父さん、謝れよ、早く!」 青年が声を荒げて老いた父に叫ぶ。が、彼は「俺は何も悪くない!」と叫び返した。 「俺は、シートベルトを締めてなかったから、締めていただけだ!何も悪くない!そんなところを歩いていたこいつらが悪いんだ!」 「すみません!おい!何を言ってるんだ、信号は赤だぞ!止まれよ!だから、こんな、こんなことになってるんだよ!」 血に塗れたまま呆れかえった。罪の意識すらこの老人にはないのか。謝りもしないどころか、言うに事欠いて、青信号で横断歩道を歩いていた俺たちが悪いと言い出した。 状況を把握しきれたのか、警官が間に入って、事情聴取を受ける。検挙するか示談にするかは当人同士で話し合ってください、と言われた。正直そんなことは何も考えられなかった。 「は?何で俺が金を払わなきゃならないんだ!だから、俺は何もやってないだろ!シートベルトを締め忘れただけじゃねぇか!」 人を轢いた意識すら彼にはなかった。息子である青年ですら軽蔑した目で父を見ていた。 金なんてどうでもいい。さっきまで、笑って生きていた彼女も、うれしそうに動いていた俺たちの子供も、もう触れられないことだけを考えていた。喧騒から顔を背け、彼女の遺体に再度目を向ける。その惨さに心が壊れそうだった。 俺は数か月ぶりに車のキーをとった。 あの事件から、車に乗ると体中が痙攣し、家の外にすら出られなかった。 彼女の誕生日の今日に、俺はあの老爺を殺すと決めていた。自己満足かもしれない、彼女が喜んでくれないかもしれない。けれど、そうしなければ、俺の心は深い憤りと悲しみに飲み込まれてしまいそうだった。 ハンドルをとり、アクセルを踏む。 大丈夫。 記憶に新しい彼女の言葉だ。 目的地はすでに決まっている。示談の場所にもなった青年の家だ。 「今日は、いい天気だな。」 久しぶりに太陽の光が目に入る。青年の家の前を通ると、ちょうどどこかへ行く支度をしていたのか、青年夫婦と無邪気にはしゃぐ子どもの姿が見えた。老人は子どもの相手を笑顔でしていた。 黒い渦が心をかき乱す。 青年の家を一周し、また前に舞い戻ると、ちょうど横断歩道を彼らは渡っていた。老人は子供らと離れて一人で歩いている。 絶好の機会だ。 そう思った瞬間、俺はアクセルを深く踏み込み、ただ一人、老人だけを狙って突進した。目の前を老いた身体が舞っていく。 少し前に進んだところで車を止めた。青年が老人の方へ駆け寄っていく姿に、妻の姿が映る。俺は車を降り、老人の身体を揺らす青年の真後ろに立った。 「あ、あなたは」 俺は老人の無残な死にざまを見て、声にならない笑い声をあげた。同時に、涙が頬を伝い、老人の血だまりを薄めた。 青年はその姿を見ても、一言も発さなかった、というより何も話せなかった。俺の心にあった深い怒りは消えた。ただ虚しさと悲しみだけが広がり、もう何も思わなかった。 「大丈夫だよ、大丈夫だよ」 いつの間にか俺は彼女の口癖をたわごとのように繰り返しつぶやいていた。
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