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無理矢理僕を引き離したせいか、お母さんだったものが黒く歪む。お父さんだったものがお兄さんの髪をひっぱり、お兄ちゃんだったものが大きなうなり声をあげた。お兄さんが銀色にきらめくナイフを取り出し、掴まれていた髪の毛を切り捨てた。黒いもやに囲まれて、髪の毛はあっという間に見えなくなる。お菓子に群がる鳩みたいに、詐禍さまたちが髪を食べているみたい。
ちょっとだけ口をとがらせながら、僕はお兄さんの顔を見上げる。僕にまとわりついていた蝶は、お役御免とばかりにお兄さんの肩にとまっていた。
「知ってたよ。僕、お母さんが本当のお母さんじゃないって。お父さんもお兄ちゃんもそうだって。でも、それが何なの? 何が問題だって言うのさ」
僕の文句に、目の前のお兄さんは驚いたように目を丸くしていた。どうしてだろう、いつもみたいに丁寧語の、お利口な言葉がちっとも出てこない。
「君は、わかっていて彼らについていこうとしていたのかい?」
「そうだよ」
「彼らは詐禍さまなのに?」
「全部が逆さまなら最高じゃない!」
何かが違うと聞いて、僕は考えたんだ。クラスメイトの話が本当なら、いつも優しいお姉さんが不機嫌そうだったことが普段と違うこと。だから、もしかしたらって思ったんだ。詐禍さまの性格は、本物とはあべこべ、正反対になるんじゃないかって。それなら、僕にとっては最高、夢の世界の完成だ。
お父さんが僕を殴ることもない。
お母さんが僕を罵倒することもない。
お兄ちゃんに恥ずかしいことをされることもない。
学校の友だちや先生たちに無視されることもない。
手を繋いで、美味しいご飯を食べて、お風呂に入って、あったかいお布団で朝までぐっすり眠る。全部が逆さまになるなら、そんな生活が手に入る。だったら、詐禍さまが化けた家族でも、僕は全然問題ないと思う。むしろ詐禍さまの家族の方が、うんと幸せだ。
「そうか。何もわからないのに、止めてしまってすまないね」
「いいよ。僕が何も知らないままついていっているように見えたんだろうし。僕のせいで、髪の毛、短くなっちゃったね。ごめん」
「構わないよ。すぐに伸びるから」
「でも、すごくきれいな髪だったから」
自分が嫌な目に遭うかもしれないってわかっていて、それでも助けてくれたお兄さんは、本当にすごいと思う。だって、先生も、友だちも僕のことをみんな見ない振りしたのに。
面倒ごとに関わりあいになってはだめ。溺れるひとを助けようとしたら、こっちまで溺れてしまう。可哀そうだけれど、仕方がない。そう思われても仕方がないと諦めていたけれど、こうやって心配してくれる大人を、僕はずっと待っていたんだ。
「家には帰りたくないんだよね」
「うん」
「……わたしと一緒に来るかい?」
「いいの?」
「人間の法律的にはあんまりよろしくないけれど。その辺りは結局うやむやになると思う。たぶん」
お兄さんは、お兄さんの髪の毛を食べたせいか、濃い紫色に変わった詐禍さまたちを見ながらそう言った。
お兄さんは、いい匂いがする。真っ黒いもやなのに触れても痛みがなかった詐禍さまたちですら、お父さんやお母さん、お兄ちゃんがよそのひとと一緒にいる時のような、薄っすら何かを誤魔化した臭いがしていたのに、お兄さんはいつどこを触れても優しい匂いしかしなかった。
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