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「詐禍さまって、迷子にならないんだろうな。方向音痴のひととか、いないの?」
「自分で道を探しているわけじゃないんだ。呼ばれたら、相手の場所に行くだけだから」
「それじゃあさっきも、僕が詐禍さまを呼んだのかな」
「たぶんね。会いたいと思ったのではないかな」
まあ、確かに僕が詐禍さまに会いたいと思っていたのは事実だけれど。それじゃあ、他のひとは? みんなは別に、詐禍さまのことを呼んだわけじゃあないと思うな。
クラスメイトが話していた女の子だって、たぶん何か用事があって優しくて頼りになるお姉さんを呼んだだけだろうし……。うん? そこで僕は首を思い切り傾げてしまった。普段から、まったく機嫌が悪くない人間なんているっけ? 僕だって、殴られたくないから見せないだけで、結構お腹の中には苛々みたいな悪い気持ちがいっぱい溜まっている。そのお姉さんが、そうじゃないって誰が言える? もしかしたら……。
「自分にとって都合の良い誰かを求めていると、いつか詐禍さまがやってくるの?」
お兄さんはふんわり微笑んだだけで、答えてはくれない。僕になった詐禍さまは、すっかり僕であることに馴染んだみたい。見たこともないスピードで、家の方向に向かって走っている。それでも門限はとっくに過ぎている。だから、玄関には鍵がかかっていて家の中に入れないはずなんだ。
あるいはお父さんがいれば、鍵が開いた瞬間に頬をひっぱたかれるかもしれない。お母さんがいれば、水をかけられるかもしれない。お兄ちゃんがいれば、洋服をはぎとられるかもしれない。その時、詐禍さまはどんな反応をするんだろう。なんだか、僕はドキドキしてしまう。
「詐禍さまを止めたいかい?」
「ううん。僕、詐禍さまのこと、好きだもの。ついていってもいいと思えるくらい、詐禍さまは優しかったよ。たとえ詐禍さまが見せてくれたものが幻だったんだとしても、家族ごっこができて僕はよかったと思う。だから、詐禍さまにはお礼がしたいんだ」
僕の中には、詐禍さまへのお礼以外の汚いものがいっぱい詰まっているけれど、それは隠したままで、僕はお兄さんに笑いかけた。
「なるほど」
「僕、悪い子かな?」
「そんなことはない。君がいいなら、わたしはちっともかまわないよ」
お兄さんは髪をかきあげながら、もう一度尋ねてきた。
「たぶん、明日からぐっと暮らしやすくなると思うけれど。それでも、わたしと一緒にこの街から出ていってもいいのかな?」
「うん。僕、違う街に行ってみたい! 新しいこと、始めてみたい!」
「わかった。それなら、行こうか。詐禍さまたちが落ち着くのなら、わたしの仕事はここまでだ。家に取りに帰りたいものはあるかな?」
まあたぶん、取りにいくのは正直難しいんだけれど。困ったような声で聞かれて、僕はくすりと噴き出す。
「ないよ。僕の大切なものは、全部ここの中にあるから」
胸のあたりをぽんと叩くと、お兄さんは大きな手で僕と手を繋いでくれた。さあ、楽しい夏休みの始まりだ。
花びらのような紫の蝶たちは、ひらひらと宙を舞う。僕たちの道案内をするかのように。
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