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『仁志さんに会いたい』
無数の星々が夜を照らし、闇の中でもセミの鳴き声が辺りから聞こえてくる。
言葉にはできない、泣きわめく子の前では口にできないそのセリフを、庭に置いた笹の枝に糸で吊るした。
その文字を見たせいか閉じた瞼の裏に黄土色の制服を身に纏った彼の、覚悟を決めた姿が浮かぶ。
思わず漏れた雫が短冊にこぼれ、濃色に染まった。
「お母さん、お祭り行こうよー!」
開けた扉の向こうから久々にはしゃぐ子の声がする。
私は涙を拭い、気持ちを切り替えて家に入り、子の元へ向かう。彼がまだいたころは、私のお腹をよく撫でてくれていた。優しく微笑みかけながら、「どんな子になるかな、楽しみだ」って言っていたことが思い出される。
「ねえ、お母さん!まだ?早く行こうよ、ほら」
その声とともに駆けてきた彼女はそのまま私の手を掴み、支度した荷物まで連れていってくれる。
「わかったわかった、お母さんも準備するからちょっと待っててね。」
織姫が一生をかけて愛した彦星に会える日だからこそ、こんなにも思い出してしまうのかもしれない。
私は早々に支度をして、娘とともに外へ出た。風も吹かない夜闇の中だが、川のそばまで来ると向かい近所の見知った顔がちらほらと見えてくる。
屋台の灯りが時を舞い戻ったようで、視界がセピアに色づいて見えてくる。
「あ、さっちゃんだ!お母さん、私、りんご飴欲しい!」
そう言って、彼女は”さっちゃん”の家がやっている屋台に向かって走っていった。周りは知り合いばかりだけど、いつまでもなつかしさに浸ってはいられない。
「もう、ちょっと待って」
私も彼女の背を見ながら追いかけた。息を継ぎながら空を見上げると、星の灯りに負けた月光が微笑んでいる気がした。
屋台を回り、大木の周囲を踊り、娘の走っていく後をついていくことで、私の身体は疲労を訴えていたのか布団に入るとすぐに入眠した。
『冴子さん、冴子さん』
私の名前を呼ぶ優しい声がする。
この覚えのある声は。
「仁志さん」
目を開けると真っ白い世界の中で、死地に行く前の服を着た彼の姿があった。
『冴子さん、ごめんね、先に逝ってしまって』
「ほんとですよ、仁志さん、本当に」
嗚咽が漏れる。そっと近づいてくる彼が、私の涙を指で拭い、身体に手を回して優しく抱いた。温かいような、冷たいような、彼の腕に身を任せ、もたれた。
耳の側で待ち望んだ優しい声がささやかれる。
『冴子さん、ありがとう。僕は、あなたと出会ってからずっと幸せでした。』
「うぅ、はい、はいっ私も、私もとても幸せでした」
知らないところで消えてしまった彼に何も伝えられなかったことを悔やむように、今とめどなく言葉が溢れてきた。
『もう行かなくちゃ。冴子さん』
「仁志さん」
今日がもうすぐ終わると告げていた。
『冴子さん、あの子をよろしくね。時折、僕のことも思い出してくれたらうれしいな。』
「時折なんて。私はいつまでもあなたを、仁志さんをお慕いしております。」
『ありがとう』
そう言って微笑む彼の姿は霞のように目の前から消えた。目を開けて見えた鏡台に映る私の目元は、涙の痕を示すかのように赤く染まっていた。
まぶしい日の光が目に飛び込んでくる。
「ああ、笹の木も短冊も、奥に仕舞っておかないと」
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