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◇
不思議なもんで、ユカリに変なことを言われてから、なぜだか焦る気持ちは消えてしまった。
他の小説や他人に対する執着も、今は感じない。結婚も、不倫だってすればいい。なんだって自由だ。
もうめっきり暑くなってしまって、家ではエアコンを付けないと過ごせなくなっていた。
急に出ていくと言い出したユカリは、散らかしていた荷物をキャリーバッグに詰めて、今日はよそ行きの服を着ている。
玄関のドアを開けた彼女は、目に入った景色と空気に、嫌そうに顔を顰めた。
「うわ~。ちょー晴れてる」
「暑そうだな」
「やっぱまだいようかな?」
「早く出てけ」
真顔でそう言うと、ユカリは楽しそうに笑う。可愛こぶって頬を膨らませているけれど、全然可愛くない。
外に一歩出ると、彼女は涼しい顔でこちらを向いた。
「また遊ぼうね」
「はいはい」
「私、アカネには幸せになってほしいんだから」
「じゃあ読めよ。私の小説」
「うん、今度ね」
「読まないな」
「読むよ~。でもだって、小説って苦手なんだもん」
全く悪気なさそうにそう言って、ユカリは困った風で首を傾げた。
本当、いい性格している。
「それにね。小説読まなくても、私はアカネと話せるからいいの」
ニコニコ笑顔のまま、彼女はまた意味不明なことを言った。
一人で満足しているユカリに、私は眉を顰める。
「言い訳になってないぞ」
「言い訳じゃないよ~。だって、話すのって、小説読むのと一緒じゃない。読むのが話すのと同じみたいに」
「……何言ってるかわからないんだが」
「わざわざ読まなくても、話せるんだから、読まない」
「はあ?」
「小説書いてても書いてなくても、私、アカネのこと大好きだもん」
晴れた青空が眩しかった。玄関を出たら、違う世界が広がっている。
でも、キラキラ光る太陽はやっぱり暑そうで、絶対下には行きたくなかった。
「それは私のことを好きって言わないぞ。小説書いてないと私じゃないんだから」
「そんなことないよう」
「そんなことあるんだよ、馬鹿」
私は、ユカリを外へ促すように前へ進んだ。ドアは開けたまま、玄関から一歩外へ出る。
「じゃあな」
「うん。来年は旅行でも行こうね」
「……ん、まあ、連絡して」
ごろごろとキャリーケースを引っ張って、ユカリは去っていく。
大袈裟な赤の水玉模様がひらひら揺れていた。相変わらず、変なワンピースだ。
彼女がエレベーターに乗ったのを見届けて、私は玄関のドアを閉めた。
靴を脱いで、裸足のままフローリングを踏んだ。部屋に戻ろうとしたとき、スマホがブブッと震える。
ポケットから取り出して画面を見た。なぜだかユカリからメッセージが来ている。なんなんだ。
忘れ物かと思ったけれど、全然違う。なんだかどうでもいいことが書かれていた。
『アカネの小説が好きな知らない人も、アカネに会ったらきっと大好きになると思わない?』
『だからたぶん、私がアカネの小説読んだら、きっと好きだって思うよ』
私の書く小説は、私そのものだ。
ユカリの言っていることは、確かに的を射ている。そう思った。
そんなことを言うために、わざわざメッセージを送ってきたのか、コイツは。
私は顔を顰めつつ、すぐに返信しようと文字を打ち始める。
『私の小説すら読んだことない奴が、一丁前なこと言ってんじゃねえよ』
送信されたのを確認すると、私はすぐにスマホを閉じた。
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