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雨上がりのパスタ
気分は最悪だ。心の中は強い風に豪雨――まるで台風のように荒れ狂っていた。
仕事中、所謂お局様に目をつけられて、ぐちぐちと嫌味を言われたのだ。
「貴女、ちょっと服装派手過ぎない?」
その人は何かと理由を付けて小言を言ってくる人だった。毎日誰かが標的となっている。そしてその誰かが、今日は不運にも自分だった。
じろじろと服装をチェックされる視線が嫌だった。
折角、この前買った服を下ろして気分が良かったのに。もしかしたらそこに目を付けられたのかもしれない。
火の粉が自分に降りかからないように、周りは視線を逸らす人ばかりだった。
「それに化粧濃過ぎじゃない?仕事に来ているんじゃないの?合コンじゃないんだから」
挙げ句の果てには、「全く最近の若い子は。そんなんだから仕事ができないのよ」だなんてため息をつかれてしまった。
「服装は自由だしそこまで華美じゃないし、第一化粧も仕事と関係ないっつーの!」
心の中では叫びつつも、表面には出さないようになんとか堪えた。そこまでとやかく言われる筋合いはないと思いながらも、波風立てないように何も言わないことを選んだ。
朝からずっとぶつぶつ言われて、それが積もりに積もってついには仕事でミスをしてしまった。上司には叱られ、お局様にはだから言ったでしょうと言わんばかりに鼻で笑われた。
負の連鎖から抜け出せず、気持ちはどんどん暗くなっていくばかりだった。
休憩に入って、わたしは逃げるように職場から抜け出した。
気分転換に今日は外食でもしよう。
何処で食べようかなと思って歩いていたら、ぽつり、と顔に水滴が落ちて来た。
ぽつぽつと雨足はどんどん強くなっていく。
梅雨のこの時期、雨が降るだなんて当たり前のことだけど、今日は洗濯物も干せる天気だと天気予報で言っていたっていうのに。
「ああもう最悪なことばっか!」
雨宿りをするため軒下へと避難する。鞄からハンカチを取り出して、濡れた鞄や服を拭っていく。新しい服だというのに、もう何もかも最悪だ。
「ところで、ここは何の店なんだろう」
慌てて避難したからどんな店なのか全く確認していなかった。
レンガ調の壁に緑色の扉が特徴的な建物だ。
扉のガラスのところに『喫茶とまり木』と記されている。『営業中』の掛札が目に入って来た。
どうやらここは喫茶店らしい。
ちょうど良い。喫茶店なら、軽食があるだろう。
「よし、ここで食べていこう」
金色のドアノブに手を伸ばす。扉を開けると、からんからんとベルの音が鳴った。
いらっしゃいませ、と声が聞こえて来た。
お店の中はこじんまりとした可愛らしい広さで、カウンター席のみだった。
端の席に老人がいるだけで、他に客はいなかった。
「お好きな席へどうぞ」
とは言っても、五席――老人が座っているから四席――しか空いていないのだが。
老人から席をあけてわたしは座った。
声を掛けて来たこの男性が店主なのだろう。
てっきり渋いおじいさんぐらいの人が切り盛りしていると思ったが違った。三十歳ぐらいだろうか。淡い青色のシャツに黒いエプロンを身につけている。黒縁の眼鏡を掛けており、爽やかな印象を受けた。
席に座ってきょろきょろと辺りを見回すがメニュー表がない。
「あの、おすすめはなんですか?」
「今日のおすすめは雨上がりのパスタです」
――はて、雨上がりのパスタとは。
戸惑うわたしを察してか、店主が説明をする。
「レモンのパスタです。雨上がりの爽やかさをイメージしたパスタなんです」
レモンのパスタ……食べたことがない。興味がそそられてそれを注文することにした。
「それでお願いします」
「かしこまりました」
そう言って店主が料理を作り始める。
店内は洋楽が流れていて、落ち着いた雰囲気だ。レトロな電灯によって、机が飴色に輝いている。
――なんか、良い雰囲気のお店だな。
店主が料理をしている音と、時々老人がコーヒーを啜る音が聞こえて来る。
心地よい音に、段々と気持ちが穏やかになってきた。
「お待たせいたしました。雨上がりのパスタです」
目の前に透明なガラスの皿が置かれた。
少し太めのパスタの上にはサーモンと水菜、そして薄く切られたレモンが載っている。
ピンクに緑、そして黄色。彩りがとても可愛らしい。
「いただきます」
パスタをくるくるとフォークに巻きつけて口元に運ぶ。
バター醤油の風味に、さっぱりとしたレモンがよく合っている。水菜のシャキシャキした食感と鮭の柔らかさが絶妙だった。
一旦食べるのを止めて水に手を伸ばして飲む。すると、ただの水でないことに気がついた。
「このお水って……」
「レモン水ですよ」
なるほど、ここでもレモンが使われているようだ。すっきりとして飲みやすい。
「レモンの匂いにはリラックス効果があるんですよ」
まるでこちらの疲れを見透かしたかのように店主が言った。
――そんなに疲れた顔していたかな……。
ゆったりとした雰囲気の中、爽やかな匂いを嗅いていると、ささくれ立っていた気持ちが和んでいく。
美味しくてどんどん食べてしまった。気がつくと、パスタは綺麗になくなってしまっていた。
パスタを食べ終えると、待っていたかのように置かれたのはおまけのゼリーだった。
ゼリーの上には小さなミントがちょこんと乗っている。スプーンを手に取ってゼリーをすくって口に運ぶ。レモンの酸っぱさとはちみつだろうか……程よい甘さが口の中いっぱいに広がった。
――甘酸っぱくて美味しい!
すぐにゼリーも平らげてしまって、ぱちんと両手を合わせる。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです。何だか気分もさっぱりして元気が出て来ました」
そう言うと店主が嬉しそうに口元を緩めた。
「そう言ってもらえて良かったです。じめじめとした梅雨の時期に少しでもさっぱりしてもらえるように考えたメニューなんで」
「そうだったんですね。梅雨の時期だから憂鬱っていうのもあるんですけど、他にもちょっと嫌なことがあって……」
気づいたら、職場で起きたことを話していた。店主は聞き上手でところどころ相槌を打ってくれた。
時々老人が新聞をめくる音が聞こえて来る。
どのくらい喋っていたのだろう。はっと気づいて口を噤む。
――しゃ、喋り過ぎた……。
「すみません、愚痴を言ってしまって……」
「気にしないでください」
ぶんぶんと手を振って店主が穏やかに笑う。皿を片付けながら、不意に店主が話し始めた。
「僕、レモンの鉢植えを育てているんですけど、レモンもね、人間と一緒なんですよ。人間ではどうすることもできない雨によって病原菌が運ばれて、病気になってしまうこともあるんです。雨が当たり過ぎないところで雨上がりを待つのが一番。じゃないと、いずれ病気になってしまいますからね」
「……でも、どうしても避けられないことってありますよね」
「そういう時は、外に出て気分転換をすれば良いんです。僕たちは、レモンとは違って動き回れますからね」
「……確かにそうですね」
ストレスが溜まっても、わたしたち人間は歩くことができる。歩いて、そして、素敵なお店を見つけて心が踊る。美味しい料理を食べることもできる。天気の悪い日は雨宿りをして、晴れるまで待てばいい。それに、今日みたいに素敵なものに出会うこともできるのだから。
荒れ狂っていた心の雨が凪いだ気がする。気持ちはとても晴れやかだ。
「ありがとうございます。少し落ち込んでいたんですけど、何だか気持ちがさっぱりしました」
「それは良かったです」
「また来ます」
「ありがとうございました」
お会計をして店を出ると雨はすっかり止んでいた。空には七色の虹が掛かかっている。
来た時よりも足取りは軽やかだ。
「よし、午後からも頑張ろう!」
そう意気込んで、前を向いて歩き出す。
雨上がりの道は、きらきらと光り輝いていた。
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