私たちさえいなければ

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敦正はいつの間にか眠ってしまい、気がつくと空が白んでいた。背がぎしりと痛む。庭で一夜明かしてしまったようだ。 「大丈夫ですか?部屋まで運べなくて、ごめんなさい」 白み空だけだった敦正の視界に彼女の顔がぬっと映りこむ。敦正が痛む背も忘れて慌てて飛び起きると彼女は柔く眉尻を下げた。 「落ち着いて良かったです」 そんな慈しみ深い言葉をもらったのはいつぶりだろうか。敦正が面食らっていると白い衣の彼女が機敏に立ち上がった。 「私が白罪と知っていますよね……なのに昨日は止めてもらい、ありがとうございました」 彼女は不揃いな黒髪を垂らして頭を下げた。どう見ても切り刻まれたであろう黒髪が痛ましい。 京の平家屋敷内で、白の装束を纏う者は「白罪」と呼ばれる。 白罪は平清盛によって設けられた平家屋敷内のみでの特殊な身分制度だ。屋敷の下働きをするのは貧しい民から買った下人だが、白罪は下人のさらに下、底である。 下人は屋敷内に放し飼う白罪を自由に虐げることが許されている。白罪は井戸の側に立ち続け、井戸に来る下人の鬱憤を晴らす「的」となるのが務めだ。 白罪を贄にすることで、平家屋敷内を浄化する。清盛による合理的であり、無慈悲な慣習。白罪が死ぬと次の白罪が清盛によって戯れで選ばれる。下人の誰かが突如として白罪に身をやつす。白罪は何の罪のない生贄だ。 敦正は白罪の務めへ向かおうとする彼女を呼び止めた。 「貴女にまた会いたい」 「私に?」 傷だらけの彼女が大きくて丸い目でぱたぱたと瞬きする。 「貴女は生きる意味を失ってしまったから、死のうとしたのだろう?だから、その……私が貴女にまた会いたい想いは、貴女の生きる支えにならないだろうか?」 彼女は唇を噛みしめて顔を歪め、肩を震わせてわっと両手で顔を覆った。 「あ、その、私が泣かせてしまったのか?……すまない」 気の利いた言葉は浮かばず、敦正はおろおろする。彼女は首を横に振った。 「私もう、人として扱ってもらえないと思っていたのに。そんなこと言ってもらえて、嬉しくて……」 ゆっくりと敦正に向いた彼女の憂顔。彼女をもっと知りたいと言葉が零れる。 「私は平敦正。貴女の名を聞いても良いか」 「……明子。名前を聞かれたのはいつぶりか、もうわかりません」 明子の涙が清くて、綺麗で、目が奪われて離せない。敦正がふと気づく。 「明子、人が来る」 「い、行かなくては」 走り出そうとする明子の背中に敦正は手を伸ばした。 「今宵も、会えるだろうか」 「私も……また会いたいです」 それだけ言うと明子は庭を走り抜けた。明子を見送った敦正の胸がとくとくと柔い鼓動を打った。
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