序 さようなら、せかい

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序 さようなら、せかい

 いくつかのかがり火で照らされた、薄暗い神殿だった。そこが薄暗いのは単に夜が深いからであり、洞窟の奥にあるわけではない。  周囲に立ち並ぶエンタシスの間から、柔らかな月の光と清浄な微風が忍び込んでいる。  そこに十数人の式服を着た神官が、無言で並んでいる。 「…アリア」  静寂を破って、いかつい顔の中年男が、目の前の少女の名を呼んだ。 「仰らないでください。…覚悟はできております」  アリアと呼ばれた少女は、ぎこちなく微笑んで、祭壇への緋毛氈を歩んだ。  途中、両側から現れた女官がアリアの外套を脱がせたが、彼女は歩みを止めることなく、夜目にも鮮やかな白い裸体を祭壇の直前まで進めた。  腰くらいの高さの祭壇に仰臥する刹那、彼女の目に月明かりが射した。 『さようなら、せかい』 『さようなら、わたしの…からだ』  石材の冷たさを背中に感じながら、アリアは眼を閉じた。もうその青い眼が開かれることはないのだと、誰もが思った。  祭壇に置かれた、いくつかの水晶を組み合わせた装置を、神官の一人が注意深く作動させる。軽い唸りをあげたあと、装置は光線を発し、天井のある点を照らし出した。そこには星のようなマークが描かれている。  視線を下ろした神官たちは、目顔で疎通し、無言で頷いた。 「アリア、頼んだぞ」  大神官の言葉に、アリアは眼を閉じたまま頭を少し動かした。  この国は危機に瀕していた。  あるとき突然、死人使いの魔女が、動死体の軍団を率いて国土を席巻した。  ひと思いに街や城を落とさない辺り、この国を支配するつもりなのか、そうではないのか。躊躇っているようでもあり、遊んでいるようでもあり、彼女の目的はまるで分からない。だが、今までに何組もの腕自慢たちが魔女討伐に向かったが、ことごとく動死体と化して戻ってきた。  ここに至り、国を護る神官たちは悟った。  炎で炎を打ち消すことができないように、この世界の人間では、あの魔女を倒すことはできないのだと。  ちょうど同じころ、誰の配剤かはわからないが、城の宝物庫で古代の秘宝、件の水晶装置が発見された。  どうやらそれが、異世界から勇者を召還するための装置であろうと判明するのに、たいした時間はかからなかった。  しかし、神官たちは使用を躊躇する。  なんと、それを作動させるには、神学を修めた清らかな乙女がひとり、命を捧げねばならぬと分かったからだ。  誰かひとりを生贄にすれば、世界は救われる。  そんなことなら話は簡単だった。  だがそれは“生贄”と呼ぶべきものではなかった。  それは、乙女の肉体を炸薬として、その魂を異世界に打ち出すというシステム。飛ばされた魂は、勇者を発見しだい捕らえて帰還するのだ。 「まるで釣りだな」  そんなこと呟くものも居た。  形としては確かにそうだが、エサの意思が釣果に直結する釣りなど聞いたこともない。  飛ばされた魂に勇者の選定が任される以上、誰でもよいというわけにはいかず、無理やり任命し、犠牲を強いるわけにはいかないのだ。  多くの者が諦め、幾人かが胸中に覚悟を固め始めたとき、高く手を挙げ、名乗り出る者が居た。それがアリア・ノストゥである。  儀式が後戻りできない段階まで進んだころ、突然の爆発が巻き起こり、光芒と爆音が、薄闇と静寂を切り裂いた。 「何事だ? こんなときに…!」  光が炸裂した方向に顔を向けて、先のいかつい顔の男が叫ぶ。 「大神官、恐らく魔女の手の者と!」 「…まぁ、他にはなかろうな」  大神官と呼ばれた男は苦々しく呟くと、アリアに向き直った。 「アリア、もう中止はできん!」  大神官は言葉を切ると、囁くように付け加えた。 「心配するな。必ず送り出してやる」  アリアの耳にその声と、言葉に込められた心は届いていたが、儀式の不首尾を恐れたため、それに答えることはしなかった。  ただアリアは、自らの役割を従容として受け入れていた。 「祭壇に近づけるな!」  大神官の命通り、神官たちは防護法術を駆使して魔物を倒していった。  防護法術には回復や補助、強化や弱体などがあるが、直接敵を倒す法術は少ない。そのため、弱体化で魔物を捕獲し、武器で倒すというやり方をしている。  さすがに神官集団である。負傷者はすぐに法術で回復させ、一人の死者も出すことなく、魔物の数を減らしていく。 「ぐはぁっ!」  しかし、最後の魔物と相打ちになって弾き飛ばされた神官の一人が、祭壇にぶつかり水晶装置が倒れた。 「座標が…!」  別の神官が慌てて手を伸ばしたが、間に合わなかった。  水晶装置が祭壇から落ちて砕けるのと、アリアの身体が光を発して弾けるのが、ほぼ同時に起こった。  大神官は呆然とした顔で、よろよろと祭壇に歩み寄り、崩れ落ちるように膝を衝いた。 「なんということだ…無駄死にか…」  そこには、最前までアリアの身体だった灰が、薄く積もっていた。 「アリア…」  あふれる涙を拭おうともせず、叫んだ。 「わが娘よ!」
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