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――あの時、総司さんはなんと言ったのだっけ。
首筋に浮かぶ血の通り道を眺め、ぼんやりとしていた雪は、頭上からかけられた声に意識を戻した。
「おい、まだか」
「――はい。ただいま」
ゆっくりとひとつ瞬きをすると、視界には懐かしい試衛館道場ではなく、見事な庭園が広がっていた。
そうだ。ここは市ヶ谷の試衛館道場ではない。京は壬生の八木源之丞邸。髪結箱から剃刀を取り出した雪は、男の青い頭に刃を当てた。
「お前、最近よく見る顔だな。壬生を流していたのは、ぼんやりとした顔の若い男の髪結だったろ。縄張を譲ってもらったのか?」
「……」
「おい! 聞いているのか?」
「――私ですか?」
「他に誰がいるというのだ」
男は呆れたように溜息をつく。雪が向かい合う男のさらに向こうで、「ははっ」と愉快そうな笑声が上がった。
「ずいぶんとぼんやりした娘だ。こりゃあ、口説くには相当な根気がいるぞ」
「荒木田さん。俺はそんなつもりはねえですよ」
「おや、そうかい。では、俺が口説くとするかな」
「島原の馴染みはいいんですか。相当な悋気持ちだって聞きましたけど」
男がおかしそうに肩を揺らす。月代に刃を当てようとしていた雪は、そっと剃刀を引いた。
「急に動かないでください」
「あん?」
「刃物を持っていますから、危ないです」
「はんっ。お前のような細腕の女子が刃物を持ったところで、斬られる俺ではないわ」
なにせ俺は、壬生の狼だからな。自嘲気味に顔を歪めた男が、雪を脅すようにぐいっと顔を近づける。男の言う細腕の女子なら悲鳴を上げるような行為も、相手が雪では暖簾に腕押し。無表情が崩れない雪を見て、男はいくらか気が削がれたようだった。
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