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アロイスは広間を出て階段を昇った。ジュディットの部屋からピアノの音色が流れてくる。彼女は相当の腕を持っていた。ピアノを向かっているときだけ、胸の奥にわだかまる感情を昇華することに成功しているのだろう。
まだ迷いながら、アロイスはガルシアの部屋の扉をノックした。
「どなた?」
「アロイス」
「どうぞ……」
アロイスは音をたてないようにドアを開け、隙間に体を滑りこませた。若い女の部屋に入るのは初めてで、それだけでもひどく緊張した。
ガルシアは窓の傍に置かれた椅子に座っている。だいぶ痩せてしまい、頬は蠟のような色だった。窓から差し込む午後の光を浴びて、ゆるくまとめただけの髪が艶やかに光っている。病人のような姿なのに、彼女はやはり美しかった。男を惹きつけるなにかがあるに違いない。まだ幼いアロイスですら、心臓が高鳴った。
「どうしたの?」
アロイスは口の中が乾いてなかなか言葉が出なかった。
「あの、エルウェのことなんだけど」
「エルウェ……」
ガルシアの眸が微かに潤んだ。
「ごめん、泣かせるつもりじゃなかった」
「いいえ」
目元を拭ってガルシアは寂しげに笑ってみせる。
「あの子のことは、もう諦めたの。仕方がなかったのよ」
「それは、どういうこと?」
「……」
ガルシアは答えず、窓の外に目を向けた。むしろ見られていないことに勇気づけられ、アロイスは話を始めた。
「僕、小さい子供がマントの男に連れて行かれるのを見たんだ。荷馬車に乗って、町の外へ出て行った」
返事はない。アロイスは握った掌に爪を立てて続けた。
「子供の顔はよく見ていないけど、エルウェだと思うんだ。そうだ、黒い髪だったもの。さらわれたんだよ。何処かに隠されているんじゃないかな。青いマントの男を捜したら、なにかわかると思うんだ」
話しながら、アロイスは自分の言葉の馬鹿馬鹿しさに気がついた。青いマントなんて何処にでもある。顔を見ていない癖に、どうやって特定するつもりなのだ。マントを捨てられたら、証拠すら無い。
アロイスは恥ずかしくなって、全部自分の妄想だと打ち消したくなった。ようやくガルシアの顔を見たが、表情に変化が無いので、なおさら面食らってしまった。
「そうかもしれないわね……」
ガルシアは心ここにあらずといった様子で呟いて、窓に目を向けた。
「もういいかしら?ひとりになりたいの」
か細い声には有無を言わさぬ強さがあった。アロイスは面食らい、口の中で詫び言を繰りながら逃げるように部屋を後にした。
嵐のような旋律が廊下を満たしていた。ジュディットが練習の成果を教師に披露しているのだろう。アロイスは青いマントの男の存在を、エルウェが消えたその日にヘロディスに話さなかったことを後悔していた。今となっては何もかも遅いのだ。ガルシアもそれをわかっていて……本当はアロイスを責めたいのだけど、子供だからと我慢している。あの時どうして、小さな子供がエルウェではないのかと不審に思わなかったのか……自分が男に声を掛けていれば、そんな勇気がなくとも大声をあげていれば……
頭の中が真っ白になり、アロイスは倒れそうになりながら自室のドアを開けた。錠を下ろすと、ピアノの轟音に紛れて嗚咽した。
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