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 アロイスはもう体の自由がきかないようで、逃げることもできずリドに体を預けて、弱々しく浅い呼吸を繰り返していた。 「……といっても、最低限の読み書きしかできない俺は、レビオール家の人間がどこに住んでいるかも知らなかった。あるのは、お前も覚えているだろう?鼠色のマント、それから俺の出生証明書だ。父親は空欄だったがな。登録がモンリュの役所だったから、俺はモンリュに行こうと思ったんだ。お袋と同じように畑の手伝いをして金を貯め、村を出たのが二十歳のときか。多少は惜しまれたが……それから、手持ちが無くなったら働いたり、賭場でお前みたいにイカサマに引っ掛かったりしながら、モンリュにたどり着いたものの、役所には俺が知っている以上の記録は無かった。俺は途方にくれてしまったが、ある酒場にレビオール家の坊ちゃんがお忍びで遊びに来るという話を聞いた。ようやく、俺の宿願に、一歩近づいたと思った……あとは、お前の知るとおりだよ、アロイス」  アロイスは伏せた目の端に涙を溜めていた。 「レビオール家の人間が、何故俺に惹かれたか、今ならわかるだろう。同じ血を分けているんだ。お前を責めることはできないな。ヘロディスもセヴランも、ジュディットさえ、俺を追い出そうとしなかった。お前の推理どおり、俺はヘロディスに毒を飲ませた。すぐに命を落とすような代物じゃない。少しずつ内臓を冒していって、死に至るものだ。苦痛もその分長引く。ヘロディスはいちばん苦しむべき人間だ。奴に比べれば、きょうだい達はもっと楽に死んで良いだろう。セヴランもそう苦しんでいないんじゃないか?エルウェは良い仕事をしたよ」  エルウェはどこまで理解して、兄に刀を振るったのか、とリドは少し考えた。しかし何も知らない方が、かえって幸せだろう。 「ジュディットには、眠っているうちに心臓が止まる薬を渡した。憐れな妹だ。痣さえなければ、今頃はどこぞの貴族の奥方になっていただろうに。せめて幸せな夢を見ながら、黄泉の国に旅立って欲しい」  ジュディットは葡萄酒を飲んでくれただろうか。飲んでいてほしい。飲まずに明日の朝を迎えれば、絶望が彼女を襲うに違いない。そうすれば、骰子を振るしかなくなるのだ。  リドは天井に目を向けて耳を澄ましたが、城の中は静まりかえっていた。 「さあ、もう話は終わりだ」  背中の刀を抜くと、血が噴水のように溢れ、床がみるみる赤く染まった。 「寒いか?手が氷のようだ」  アロイスは頷き、睫毛を震わせながらなんとか目を開いた。 「リド……」  もう声を出す気力はない筈なのに、彼は確かにリドを呼んだ。リドは耳をアロイスの唇につくくらいに近寄せた。アロイスは何度も息を吸い、ようやく囁いた。 「悲しいね……それでも……それでも僕は……君が好きなんだ……」  アロイスはふたたび目を閉じたが、辛うじて呼吸は続けていた。リドは背中の傷に手を押しつけた。温かな血がとめどなく吹き出している。もはや止められるはずもなかった。  リドは床に落ちていた短刀を拾い上げた。 「心配するな、ひとりにはさせない、アロイス。お前と出逢ってから、こうするしかないと思っていたさ」  頷く素振りすらしなくなったアロイスの体を抱きながら、リドは短刀をどこに突き立てるべきか思案し、そして決断した。  窓の外は夕闇に包まれ、警備兵の喇叭の音が長く響いて消えた。 了
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