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ねえ、ジルは?失敗したの?ヤコはそう言った。
「ええ。敵の手に落ちました。それでまあ、拾うのに、苦労しましたよ?」
涼白さんを引っ張り引き摺りながら、プレラーティーはヤコに近付き、それを手渡した。
「ふうん?そんなにいいものなの?ああ、私、小さいからちょうどいいかもね?お姉ちゃん、これ、何だか知っている?」
ヤコは、大振りの西洋剃刀を、広げて見せた。
「これは、まあ、随分昔の、事件の残滓ね?1月の間に、5人もの人間が惨殺されたんだけど。ああ犯人?どうでもいい、ただのろくでなしよ。でもね?事件の本質は、地獄から来た男気取りの馬鹿なんかじゃなくて、これにあったのよ。これは、ソウルスライサーと呼ばれるものよ?ジルは、ただ死体を切り刻む程度の使い方しか、してなかったけれど、知っている人間が正しく使えば、把握した魂、その、アカシックレコードそのものを切り裂けるの。こんな風に」
3メートルほど、離れた場所にいるプレラーティーに、剃刀を振るった。
到底、届かない場所にいたはずの、プレラーティーの喉が、紙のように斬り裂かれていた。
「は?――はれ?――ひろい――れふ」
喉から息を吹き出しながら、プレラーティーは倒れ伏した。
「これの恐ろしさは、ジルにジャックは勿論、プレラーティーすら知らなかった。お姉ちゃんと交配させるには、こいつじゃあねえ?お姉ちゃん、地獄を、知っている?」
ヤコは、ゆっくり近付いていった。
涼白さんは、変異する必要を認めていたが、足が――動かなかった。
「うんまあ、抵抗されると面倒だから、健を切っといたの」
いつ――切られたの?痛みすら――なかった。
大量に、血が流れているのに。
ヤコの手が、しっかりと、涼白さんの首を固定し、剃刀が、喉に添えられた時、
屋上の扉を爆裂させ、影山さんが、静也が、クティーラが、莉里が屋上に躍り出ていた。
「涼白さあああああああああああああん!今行くのよさああああああああああ!」
「うるさいな。お前達、平伏せ」
全員が、一切攻撃すら出来ず、その場に平伏していた。
「ああ、お前は特に動くな?莉里姉ちゃん――だっけ?」
「こ――これは、流紫降――兄ちゃんの?」
冷たい、汗が伝っていた。
莉里の予感は、最悪な状況で実現しつつあった。
誰もが、全身に汗を流して、その場に平伏を余儀なくされている。
「莉里――無理じゃ――妾も――動けぬ」
「私が見た世界は、全て意のままになる。それが、私の魔眼「皇帝眼」よ。ゾーイであろうが羅吽であろうが、私には決して逆らえない。お姉ちゃん、アリオトって言ったな?真紅の血を流せ」
「や、やめろおおおおおおおおおおおおおおおおお!涼白さんは!莉里の最高のメイドさんなのよさああああああああああああ!静也!影山さん!さっさと、立ち上がって戦うのよさああああああああああああ!」
「無理です。すいません。莉里様」
深く平伏した、静也が言った。
「涼白!今助けるぞ!俺は――お前の、大好きな、お兄ちゃん――だから」
「うるさいなお前は。ああ、メラニスティックか。皮剥いで持って帰ろうかな?」
涼白さんは、戦慄していた。
この少女、あれだけのことをしたのに、相変わらず、その身に一切の罪の匂いがしないのは、一体。
ああ、この子、私達が、それが罪だと教えられたことを、一切教わらずに、ここまで育ったというの?
人を知らず、命を知らず、育った子供の放つ、根源的な恐怖に、涼白さんは苛まれていた。
すーっと、喉に触れた感覚があった。
お兄ちゃん。――ごめんね?
涼白さんは、命を諦めかけていた。
莉里、クティ-ラ、静也に影山さん。ここにいる、国を未曾有の崩壊から救ったこともあった、一騎当千の霊撃者ですら、幼女相手に手も足も出せない、指一本動かせない、異常すぎる現状。
まるで、相手にすらならなかった。
相手は、まだほんの幼児にすぎないのに。
不意に、喉を裂く力を緩めて、ヤコは言った。
「あら?百鬼姫は、どうしたの?五火神焔扇で、襲いかからないの?そこで隠れてるだけ?」
「あー、バレた?」
屋上入口の陰に隠れていた、百鬼姫が顔を出した。
「私は、手は出せないのよ。隠れて、不動七縛かけても無駄だったし」
まあね。と言いたげに、肩をすくめたヤコの姿があった。
「ただまあ、こう言う時に出来る手は限られててね?」
「ふん?それは?」
出てきた百鬼姫は、顔を扇で覆っていた。
「え?だって、刃物持った迷子が暴れたら、普通、どうする?」
左手にあるものを見て、ヤコが目を細めた。
「ええまあ、この携帯で」
その時、大きな黒い翼をはためかせて、恐怖の父兄が降り立った。
「よくやった。田所」
「あ。あああああああああああああああ!!パパあああああああああああ!!!」
「ああ。来てやったぞ?莉里。動けないのか?あんなもの、見なきゃいいんだ。怒った時の真琴と同じで。相模湾の時とか、式の時みたいに」
その時、そっぽを向いた父親と、娘が向かい合っていた。
文化祭に端を発する、狂詩曲めいた事件の顛末は、恐ろしい速さで終焉に向かい、加速していくことになる。
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