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信号
「おい! 信号を無視するな!」
真っ昼間の繁華街。小ぶりなスクランブル交差点に、男性の怒声が飛んだ。その声は、交通ルールを守らぬ者への怒りではなく、強烈な警告にも似たメッセージに聞こえた。
少年は本日発売のゲームソフトを買うために、目当てのゲームショップへと急いでいた。前回のシリーズをクリアしてから、ずっと心待ちにしていた新作。行き交う人の群れをものともせず、一心不乱に走る。
「チッ」
不運にも赤信号に引っかかってしまい、大げさに舌を鳴らしてみせた。
行く手を阻まれ焦る少年。唸り声をあげながら、何度も赤いランプを睨みつける。永遠にも感じられる赤信号に地団駄を踏むも、一向に変わる気配がない。痺れを切らした少年は意を決した。
軽く左右を一瞥すると、弾むようなフットワークで一歩を踏み出した。
視線を上げた先には信号機のランプが。
「えっ?!」
来月に控えている彼女の誕生日。甲斐性のない自分を支えてくれる彼女には、心から感謝している。そろそろまともにお祝いくらいしてあげたい。
飲食の配達サービスの仕事にもようやく慣れ、効率的にリクエストをこなせるようになってきた。順調に行けば、来月にはまとまった金が手元に。それでプレゼントを買ってあげられる。彼女の喜ぶ姿を思い浮かべると、ペダルを踏む足にも自然と力が入った。
目当ての配達リクエストをタップした青年は、心地よい風を感じながら自転車を操って行った。
「大丈夫そうだな」
交差点に差し掛かる直前、青年は周囲を軽く見渡した。眼前の信号は赤。ただ、特に危険な様子はない。
スピードを緩めることなく、交差点に突っ込んで行ったときだった。
男性の声が耳に飛び込む。その声に促されるようにして、視線は目の前の信号機へと。
「えっ?!」
二度目はないと釘を刺されていた。せっかく与えてもらったチャンス。悉くそれを無駄にしてしまうなんて……男は自らの無能さを呪った。
「お前のところの製品、また不良品が混じってたじゃないか! 何度同じミスをすれば気が済むんだ、バカヤロウ! すぐに代替品を持って謝罪に来い!」
得意先からのクレームの電話が、男の耳を突き刺した。納品前の検品は怠らなかった。ただ、精度が甘かったようだ。タイムマシンがあれば、検品時に戻り、危機意識なく製品をチェックする自分をぶん殴ってやりたい。
「あぁ、ヤだなぁ……めちゃくちゃ怒られる。いっそこのまま消えてやろうかな……」泣き言が口をついて出た。
男は先月も同じ得意先からの発注でミスを犯していた。せめて別の得意先だったら、これほど怒られずに済んだのに……と、愚痴をこぼしながらも、男が走らせる車は自然と制限速度をオーバーしていった。
「うわぁ、最悪……めっちゃ混んでるじゃん!」
繁華街の手前に差し掛かった辺りから、通行人の数が増え、思うようにスピードが出せなくなってきた。
「やべ!」
メーターパネルに目をやると、予定よりも時間が押している。このままじゃ、得意先との約束の時間に間に合わない。
無情にも信号機が赤に変わる。ペダルから足を浮かせ、ブレーキペダルへと移動させようとしたその瞬間、男は迷いを吹っ切るようにそのままアクセルペダルを踏み込んだ。
「頼む、見逃してくれ!」
やけくそになった男は、念じるように、全身に力をみなぎらせた。見開いたその目が捉えたのは信号機のランプ。
「えっ?!」
「どうしてこの世の人間は、好き好んであの世に行きたがるんですかねぇ」
「まぁ、好き好んでってわけじゃないだろう。皆、それぞれに事情を抱えて――」
「にしても、先輩が提案した案は、効果が薄かったみたいですね」
後輩の担当員が、薄ら笑いを浮かべる。
あの世と呼ばれる世界に住まう者が急激に増え、人口問題が叫ばれるようになって久しい。問題解決に当たる部署に配属された男は、改善に向けてある提案をした。この世の人間が、あの世に行ってしまうことを防ぐための案だ。
「いいアイデアだとは思ったんですけどねぇ、先輩のアイデア」
「効果が出なけりゃ意味がないよ。渡っても良いと告げる青信号、注意して止まれと黄信号、完全に止まれと警告する赤信号。そして、赤信号のルールを破ってしまう人間に警鐘を鳴らす黒信号。無視して渡ればあの世行き――黒色を見せてやれば、思い留まってくれるんじゃないかと思ったんだが」
「今回は、子供と若者とサラリーマン。派手にやらかしましたねぇ。三人とも、一瞬にしてお陀仏。一度に三人も迎え入れるなんて、今ごろあの世じゃ役所の偉いさん、プンプンしてるでしょうねぇ」
「仕方がない……また別の案でも考えてみるよ」
こめかみを指で揉みながら、男はため息混じりに空を見上げる。
凄惨な事故の騒ぎでごった返す繁華街の上空では、真っ黒なカラスたちが、卑しい鳴き声を轟かせながら飛び回っていた。
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