第1章 第1話

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第1章 第1話

 俺はただ、スマホを見ていただけだった。 クソみたいな会社の昼休み、地下牢のようなオフィスを抜け出し、缶コーヒー一本だけのランチタイムを雑踏の中で過ごしていた。 いつもの定位置となっている段差に腰を下ろし、光る画面を意味も無く眺めている。 うつむく顔をふと上げてみても、歩道いっぱいに詰め込まれた人々の動く腰から下しか見えない。  爽やかな五月の連休なんて、この世からいつ絶滅したのかも記憶にない。 俺には異次元の話だった。 それでも人の戻ってきた歩道に整然と並んで咲くオレンジの、どこかで見たことのあるような花に目をやると、少しは解放された気分になる。 ビルに囲まれた狭い空でも、頭上に空は存在していた。  もういい歳した大人なんだからとか、仕事だろとか、この場所にしばられる理由が俺にとって明確でないものが多すぎる。 それらのくだらない習慣に、盲目的に従わされることに心底疲れていた。 この世界を変えるには、やっぱ俺が魔王にでもなって支配するしかないか?  それとも勇者になって、どこにいるのかも分からない見えない敵と戦う? 「はは。くだらねぇ」  片手に余るほどの小さな缶に残っていた、甘ったるく濁った液体を胃に流し込む。 ふと視界に入ったビルの広告が、新しいものに変更されていた。 「織田信長の新着ゲームか……」  そういえば信長って、本能寺の変で死んだんだっけ。 特に興味もなかったが、何となく「本能寺の変 いつ」でスマホ検索をかけてみる。 画面に大きく『本能寺の変の発生日 1582年6月21日 天正10年6月2日』と表示された。 六月か。 頭上に降り注ぐ今まさに六月の太陽に目を細める。 その瞬間、近くで悲鳴が聞こえた。  俺の目の前に、一台の車が猛スピードで突っ込んでくる。 「あ、轢かれる」そう思った瞬間、体は宙を舞っていた。  ドンと地面に叩きつけられた衝撃に、ガバリと起き上がる。 俺は真っ白な着物を着て、布団の上に寝かされていた。 傍らにいるのは、明らかにお坊さんだ。 広々とした黒光りする板の間に、俺の寝る布団だけが一枚敷かれている。 車に轢かれたはずの体に急いで両手を這わる。 生きてる。 俺は生きている。 怪我もしていない。 それは間違いなく、確認出来たのだが……。 「殿、どうかなさいましたか」  寝かされていた部屋は、質素な作りだが漂う高級感がハンパない。 さらさらと流れるような薄く美しい布をぶら下げた衝立のようなものが、まだ幼い小姓によって取り除かれる。 俺と坊さんを隔てていた境界が取り払われると、大きなたらいに入った水が運ばれてきた。 「朝のお支度の時間にございます」  次々と現れるのは、みんな頭を丸めたお坊さんばかりだ。 ここは寺なのか?  うちって仏教徒だったっけ?  死んだら天国に行くというけど、だったらここは極楽浄土?  それとも三途の川を渡る手前の、控え室的な感じなのか?  尋ねたくても、誰もがひれ伏し目を合わそうとしない。 とてもじゃないが、聞けるような雰囲気ではなかった。  どうやらこの水で顔を洗えということらしいので、たらいの中をのぞき込む。 その水面に映った自分の姿に、目を見張った。 「んだ? コレ!」  自分の頭を無我夢中で撫で回す。 剃り上げられた頭頂部。 その奥にはしっかりと結びつけられたちょんまげがついていた。 どれだけ強く引っ張って取り外そうにも、自分の頭皮と完全に一体化してしまっている。 「の、信長さま! お許しください!」  取り乱した俺に、突然目の前の坊さんたち全員がひれ伏した。 「……。え? 待って。いまなんつった?」  引っかかったのは、もちろん坊さんたちが恐れをなしたことじゃない。 額を床にこすりつけたまま、彼らは全身をガタガタと震わせて言った。 「信長さま。どうか御無礼をお許しください」 「のぶ……なが……?」  もう一度水面をのぞき込む。 織田信長の姿としてぼんやりと記憶にあるのは、中学の時の教科書に記載されていた、掛け軸に描かれた色白でつり目の肖像画がなんとなくだけだ。 「え? え?」  その姿を思いだそうにも、はっきりと思い出せない。 俺が最後に見た信長は、確か新着ゲーム看板のいかつい髭を生やしたもみあげのやたら勇ましい……。 「えー! 俺が織田信長!?」  思わず上げた大声に、坊さんたちは完全に硬直してしまった。 どうしよう。 どうしようもこうしようもないが、とにかくどうしよう。 「いかがなさいましたか。殿」  不意にふわりとよい香りが鼻先をくすぐる。 混乱した頭にすっきりとした爽やかなお香の香りがして、ポニーテール姿の美少年が枕元に腰を下ろした。 「わぁ。森蘭丸だぁ。マジぃ……」
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