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第3話
気づけば日はとっくに暮れ、辺りは夜の闇に飲まれていた。
ただ座っていること以外、ここでは何もすることがない。
「遅い!」
どこにもぶつけられない苛立ちに、扇を床に叩きつける。
恐れおののくことしか出来ない取り巻きたちの奥で、急に廊下が慌ただしくなった。
「殿。ただいま戻りました」
蘭丸だ。
彼は今朝早くに会った時の姿そのまま、何一つ乱れた所のない状態で俺の前に頭を下げる。
「一体今まで、何をぐずぐずしていた!」
「申し訳ございません。殿より承りしご用命、無事果たして参りました」
小姓の拾い上げた扇を受け取ると、パチンと打ち鳴らす。
蘭丸の横にしゃがみ込んだ。
「して、返事は?」
「急ぎ馳せ参じるとのことにございます」
「一緒には来なかったのか?」
「そ、それは流石に無理でございます。明智どのにも棟梁としてのお立場があり、すぐには動けません。しかも出陣を控えてのなか、いくら殿のお呼び立てとはいえ……」
「えぇい、もうよい。黙れ! 光秀はなにをしていた」
「出陣の支度を整えておりました。明後日には出陣される模様です」
「明後日に出陣? 明後日は、ここで茶会の予定ではなかったのか?」
「さようでございます」
「では、光秀は茶会には出席せず、そのまま戦に出発するのか?」
「はい。殿の命を受け、急ぎ出立すると聞いております」
「なぜ俺の茶会には出ない」
「殿の命を優先したものと……」
光秀はあくまで、従順に従っていたのだ。
信長は最後まで、彼に裏切られるだなんて思ってもいなかっただろう。
どうすれば本能寺の変を回避できる?
誰かに相談したくても、出来る相手がどこにもいない。
光秀にしたって、ある日突然発作的に信長を殺したわけじゃないだろう。
殺したくなるほどの、怨みを募らせていたはずだ。
なら今も戦の準備をしながら、俺を殺したいと思ってる?
今すぐ茶会をやめ、兵を集めるか?
集めたところで、誰にどう説明して指揮をとる?
「蘭丸。兵を集めるとして、どれだけ用意出来る?」
「今からですか?」
「今すぐ。この本能寺で。最速で最強の陣をしきたい」
「えっと、中国攻めのため現在安土に残している兵のことでしょうか? ならば一度、本陣へ戻って家老にご相談を……」
「だよな」
ガクリとその場に膝をつく。
たった一人、ワケも分からないままいきなり最高権力者になったところで、出来ることなんて何もないじゃないか。
勝手がまるで分からない。
現実はいつも厳しい。
俺はこのまま、殺されると知りながら死ぬしかないのか?
「どうすりゃいいんだよ……」
「殿。いかがなさいましたか」
これほどの色香を放つ男子を、他に見たことがあるだろうか。
俺はその白い首筋に惹きつけられるように顔を埋め崩れ落ちる。
「怖いんだ。怖いんだよ、俺は……」
全身で震えている。
孤独と死の恐怖が絶えず大波のように打ち寄せては覆いかぶさってくる。
いっそのこと、このまま溺れ死んでしまいたい。
「俺に天下取りだなんて、出来るわけないじゃないか。右も左も分からないような、ただのつまらない男だぞ。知恵もなければ勇気もない。権力や力だなんて、そんなものハナから信じちゃいねーよ。どうしろっていうんだ。所詮俺に扱いきれる器じゃねーんだよ」
そうだ。
俺はずっと怖かったのだ。
運にもリアルにも見放された自分が。
「どうしよう。どうすればいい? 俺は死にたくない。こんなところで、死にたくねーんだよ」
思わず蘭丸の腕をつかむ。
堪えていた嗚咽が喉をついた。
他にすがれるものなんてどこにもない。
甘えて許されるなら、何だってできる。
不意に白く繊細な指先が、俺の頬に触れた。
「殿はこれまでも、懸命に生きておいででした。そのことは、万人が知ることでございます」
柔らかな手がそっと撫でるように頭を包み込んだかと思うと、俺は彼の胸に抱き寄せられていた。
「これまで殿がやって来られた試行錯誤は、正しいこともあれば間違いもあったかもしれません。ですが私を始め殿に付き従う者は、みな殿のお心を信じた者です」
まだ十代と思われる彼の体は、若くみずみずしい力に満ちあふれていた。
「どうか殿は、ご自分の信じた道を歩んでください。我々はそのために、ここにいるのです」
背に回された腕が、そっと俺の耳を撫で結い上げられた髪を撫でる。
俺はその透き通るような温もりのなかで、ぎゅっと目を閉じた。
「どうか殿のお心のままに。それがきっと、最善の道にございます」
むせび泣く俺の背を、蘭丸はいつまでも優しく撫で、包み込んでいた。
抱きしめた体は強くしなやかで、俺の知るどんな女のものとも違う。
「信長さま。どうか天下をお取りくださいませ。そうすればこのような不安な夜が、再び訪れることもなくなりましょう」
そうだ。
俺は織田信長だ。
この世の天下人となる人間だ。
誰もが望むその地位を、他の人間に奪い渡してよいわけがない。
成し遂げなくてどうする。
この運命を背負っているのは、正真正銘紛れなく俺自身なのだ。
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