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第3話
「頼む、光秀殿! 俺はまだ生きていたい。ここで死にたくない。やり残したことがあるとか、そんな立派な志とか何もない。俺はただ、死ぬのが怖いんだ!」
さすがに驚いた顔をしている光秀の膝にすがりつく。
「頼む。俺を殺さないでくれ。今度からお前のいうことならなんでも聞く。悪いところがあったのなら謝る。直す。これからも俺を指導し支える立場であってほしい」
迫真の演技なんてものじゃない。
これは真実、俺の目から流れた涙だ。
「どうか、俺を殺さないでくれ。頼む。お願いだ……」
吐息の漏れる音が頭上で聞こえる。
光秀は深いシワの刻まれた顔を柔らかく曲げてしゃがみこんだ。
「どうなされた、信長殿よ!」
大きな手が両肩に乗り、しっかりと俺の体を掴んだかと思うと、強く揺さぶった。
「ははは。そのような情けないお姿まで披露されるとは、よほど心を許されたと見える。なに、殿が心配なさるようなことは何もありませぬ。まだ死を恐れるようなお歳でもござらぬでしょう。負け戦の最中ならいざ知らず、もはや天下を手中に収めたと言って過言のないお方が。どうなされた。急に怖じ気づかれたか?」
「違う。そうじゃない。今は純粋にたが、光秀殿が恐ろしいのです」
「殿!」
光秀は今度は、顔いっぱいに大きな笑みを浮かべた。
「この光秀は今までもこれからも、未来永劫殿の側におります。殿は今まで通り、まっすぐに前だけを見てお進みくだされ。そうして最初の一歩を切り開いてゆかれるのが、信長殿の役目。その後ろをついて行くからこそ、我々がここにいる理由があるのです」
百戦錬磨の老少の目は、誰よりも明るく眩しく光り輝いていた。
放つ眼光が俺の脳を突き破る。
「さぁ、もう話はこれでお終いです。儂は儂に与えられた仕事をこなしましょう。殿もまた、心穏やかにこれからの日々に備えられよ」
「……。それを、信じていいのか?」
「当然にございます。なにを迷うことがありましょう。殿はこの光秀を疑うおつもりか?」
そう言われ、激しく首を横に振る。
俺にはもう、光秀の言動しか信じられない。
「さ。いつもの殿に戻られよ。儂にも儂の務めがありますゆえ、これにて失礼いたす。ですが次に会う時には、互いに笑って会うことをここで約束いたそう」
「ありがとう」
俺は精一杯の感謝の気持ちをその言葉に込める。
「ありがとう。その言葉を聞けて、ようやく安心出来ました」
光秀が堂を降りてゆく。
すぐ脇に控えていた身内のものと合流すると、人目を避けるように境内から出て行った。
蘭丸は膝をついたまま呆然としている俺を見上げた。
「光秀殿と、お話は出来ましたか?」
「……。分からぬ。が、そう信じたい」
目元に残る涙を拭った。
俺は歴史を変えることが出来たのか?
「して、今日は何月何日だ」
そう呟いた俺を、蘭丸の美しい顔が振り返る。
「天正十年、五月三十一日にございます」
運命の日は、明後日に迫っていた。
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