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#9 レツの好奇心
話は、少し前に遡る。ロチを寮の幽霊メイドに任せ、このヤギの教諭とともにレツは中等科の校舎へ向かった。向かう際にも教諭から様々な設備の説明をされたが、特にレツは聞き入ることなく相槌を打っていた。相槌を打ちながら特に舗装もされていない道を進んでいくと、校舎の入り口が見えてくる。校舎は全体的に石造りの城のように見えたが、中は年季の入った大理石の壁に踏み潰された木の床と、時代が若干ズレたような印象を受ける。レツにとっては然程珍しいものではないが、歴史を知る人間にとっては少し不自然に感じるかもしれない。そんな人間が魔界に落ちるかは知らないが。
ヤギの教諭に案内されて入ったのは校長室だった。この学校は初等科から高等科まで同じ校長が責任者として実質的なトップとなっている。
「レツ先生、この度は我がグランツ魔術学校に来てくださりありがとうございます。そこへおかけください。」
校長と呼ばれる鳥に促され、レツは長椅子に腰を掛ける。レツの前には人型の上級悪魔と、止まり木に羽を休める梟がいた。その梟は黒々とした目をレツに向け、レツを呑み込もうと言わんばかりに見つめていた。レツから見れば梟は特に何も思うところはないが、梟の隣にいる上級悪魔には目を遣る。レツの勘は、その悪魔は堕天使であると言っている。恐らく胸元に天使の象徴である星があるのだろうが、レツには関係ない。
「レツ先生、早速ですが雇用契約についてお話ししましょう。まず、書簡にも書かせていただいたとおり、貴方を我が校に呼んだのは高等Ⅱ課程の教員になってもらうため、そして学校の諸問題を時々解決してもらうためです。お給料は怠惰地域の基準と我が校の基準を基に支給いたします。」
レツはその話を聞き、手紙の内容を思い出す。
「校長先生、私がいただいた手紙には十分な住環境を整え薬の研究をする環境を与える代わりに、教員をするという話だったと記憶してます。もし教員の仕事の他に諸問題を解決する仕事もあるのであれば、その分の手当てもつけていただきたい。」
その話を聞いた校長は、少し顔を曇らせたように見えた。その話は校長にとって痛い話なのは目に見えてわかった。
「レツ先生、そのことなのですが年々生徒数が減少してて、用務員や専門職の職員を減らさざるを得ない状況にありまして、手当の支給は高額なものにすることはできません。」
レツにとって、その返答は想定内だった。この調子だと恐らく他の教員には手当を支給していないのだろう、と。
「校長先生、私はそんな高額な手当は求めておりません。ただ、諸問題の解決には労力がかかるというものです。ですので、少給でも良いですのでお願いしたいのです。」
「少給で良いなら、諸問題を解決した翌月に支給いたします。では、こちらの契約書に署名をお願いします。」
隣の悪魔が筆を走らせ、契約書を書いていたことに今気がついた。書き立ての契約書は上級悪魔の力が滲み出ており、魔界に来たばかりの者には毒のようであるが、レツには何も感じないものであった。レツは手渡された羽ぺんで自身の名前を書いていく。しっかり手当のことも記載されていた。
「それではレツ先生、これからよろし……ホーホーホー。」
レツに挨拶したと思われた校長は、いきなり梟のように泣き始めた。レツは少し予想外だったため眉をぴくりと動かしたが、隣の悪魔は微動だにしなかった。その様子を見るに、いつものことだろうと、レツは感じた。
「失礼しますレツ先生。校長は梟に自我を侵食され始めているもので、長く話しているとこうなってしまうのです。」
悪魔はそう言いながら、校長と呼ばれる梟を校長席の止まり木に戻していった。梟は次第に目を瞑り、やがて寝息を立てていった。
「うちの校長は元々魔界の最初期に堕ちた人間でした。魔界の力を吸収し続けやがて梟になり、今では意識が野生の梟に侵食されつつあります。ですので、何かあれば私に相談してください。」
「わかりました、以後そのように対応します。……ところで貴方は?」
「……申し遅れました、この学校の副校長です。」
「副校長先生、これからよろしくお願いします。」
そう言って部屋を出ると、ドアの隣には、あのヤギの教諭が待っていた。
「お話は終わったみたいですね。では、先生の寮にご案内いたします。」
レツはその言葉に反応し、ヤギの教諭についていく。
校舎を出てしばらく歩くと、何棟のアパートが視界に入ってくる。アパートは小綺麗で年季はある程度入っているものの、予算不足の学校にしては状態の良いものだった。ヤギの教諭はその内の一棟にレツを案内し、五階まで上がっていく。一番奥の部屋の前までくると、教諭は鍵を取り出した。
「ここがレツ先生の寮部屋となります。お部屋は基本2LDK、ユニットバスとなっております。ベット、ダイニングテーブル、椅子、冷蔵庫は付いています。他の先生方は間取りを魔術で変えておりますが、出ていく際には元に戻せるようにしてください。これが鍵です。今後の予定に関しては副校長から連絡があると思います。長旅で疲れたでしょうから、今日は部屋のことは最低限にしてしっかり休んでくださいね。」
そういうとヤギの教諭はレツに鍵を渡すと、校舎へ戻っていった。その小さくも働き者の背中を見送ると、レツは部屋に入っていった。
部屋に入ると、まず左には扉があった。その扉を開けると教諭の言っていたユニットバスだった。洗面台にトイレ、そしてシャワーカーテンのついた風呂、ここはいじらないでおく。レツの経験上、配管まわりを弄るのは後々面倒であることを知っている。ドアの右側は間仕切りカーテンで仕切られた空間があった。ここは物置にする。そして、目の前のドアを開け左を見るとキッチンだった。あの教諭の言うとおり、冷蔵庫はしっかり付いていた。右には言葉通りのダイニングテーブルと椅子がある。これはありがたく使わせてもらう。目の前の間仕切りカーテンを開けると、そこはリビングだった。リビングは何もなく、左側の間仕切りカーテンの先にはベットのみが置いてあった。
今から、ここがレツの部屋になる。教諭はレツを気遣ってくれていたが、当のレツはそんなつもりは一切ない。今から自分の部屋を作るのだ。そう思い立ったレツは自分のトランクを広げる。トランクからは紙が溢れかえり、床に静かに散らばる。レツは紙の山を漁り一枚を取り出す。まずは壁の加工からだ。レツは取り出した紙を壁に押し当てる。壁には目に見えた変化はないが、レツには変化しているのがわかる。次に紙の山から戸棚が描かれた一枚を取り出す。レツは紙を窓際に置くと「出よ」と唱える。すると紙に描かれた戸棚が現れた。レツはそれを見ると、次々に紙を床に置き出現させる。引き出しの付いた実験台、薬学に関する本が大量に収納されている本棚、今までずっと集めてきた様々な実験器具、愛用してきた調剤道具、薬草は戸棚に元々入っている。レツは夢中になって自分の「部屋」を作る。作り上げられていく部屋は自室というよりも「実験室」になり始めていた。室内で栽培するマンドラコラ、自分で作った薬草プラントも置いていき、レツが思い描く部屋を作り出していった。一通り作っていくと、部屋の一角にソファとソファテーブル、小さい棚を置いていく。これがレツの「リビングルーム」だ。実験室の隣のベットルームは備え付けのベットにいつ手に入れたかわからない布団を適当に置いた。ベットの隣には適当に机と椅子を置き、部屋の隅に衣装箱をささっと置く。これで「ベットルーム」が完成した。
リビングのソファに体を預け、煙管で一服していると、誰かが部屋に訪ねてきた。それに応答しドアを開けると、上級悪魔の男が立っていた。その悪魔は所謂ダークエルフであり、手にはワインが握られていた。
「レツさん初めまして、お疲れのところ失礼します。楽しそうな魔力を感じて、貴方がきたことがわかりましたので挨拶に来ました。申し遅れました、私この学校で詠唱を研究しておりますエトムントと申します。これ、お近づきの印です。」
そのエトムントと名乗るダークエルフは言いたいことを言い切ったようだった。レツはそんな悪魔はよくいることを知っている。
「これはエクムントさん、初めまして。レツと申します。これからここの学校で薬学を研究することになりました。これからよろしくお願いします。」
レツはワインを受け取りながら言葉を返した。「それでは、新学期に」とエクムントが去ると、レツはワインを手にリビングに戻っていった。ソファに再度体を預けると、棚からコルク開けとタバコの葉を取り出す。ワインを開け葉を煙管に入れて火をつけ一服する。そして、ボトルと手に取り一気に呑んだ。レツとってアルコールは水だ。正確には、口に入れた瞬間、レツの体はアルコールを毒と認識し水に変えてしまう。そのためこのワインはアルコールが抜けた、ただ水で薄めたブドウ果汁に近いものに過ぎない。レツのこの体質は、他者を拒まず内で変質させ取り込むという性質からきている。この性質からくる体質を使って、レツは悠久の時を薬の研究と調合に使ってきた。まだ薬の知識が未熟だった頃、偶然毒物を作り出しては身体中から何度も煙を出してきた。そしてその中で、自分の舌で毒なのかそうでないのか、目の前の患者に有効なのかそうでないのか判別できるようになっていった。これはレツにとっては好奇心の副産物に過ぎない。薬をはじめ、無垢だった頃のレツは他以上に好奇心旺盛だった。好奇心に従い薬を学び研究し、その中で他人を最低限助けることを学んだ。この学びはマゲイルにも伝えたが、彼の中ではレツとはまた別に変質していったようだった。だがレツには関係ない。自分の手元から離れれば、自分の管轄ではなくなる。そもそもマゲイルを引き取ったのは、あの二人に嫌悪を抱いただけではなく、多種族の赤子に好奇心を擽られたからだった。その興味は彼が十三になる年に消えたが、再び彼とは別の好奇心を擽られる赤子に出会い、さっきまで興味が続いていた。これからは実験への好奇心と、最低限の職務に集中する。正直に言えば、レツにとって手当など多いだろうが少ないだろうがゼロだろうが、どうでもよかった。ただ、職務以外の諸問題の解決はやがて自分の首を絞めることがわかっていたから態々交渉したのだ。あの交渉で、諸問題の解決は最低限になるだろう、そう考えながら煙管を掃除すると実験台の方へ向かう。薬への好奇心は疲れの中でも消えないのだ。魔界の夕日が実験室に差し込む。夕日に包み込まれても好奇心は衰えない。レツにとっての好奇心の産物は、未だに現れていないのだから。
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