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凪冴くんと意気投合したのは、去年のことだった。まだクラスメイトの顔と名前が一致していない頃のことだ。
お昼休み。友人は部活の集まりで一緒に昼ご飯を食べられないとのことだったので、わたしは気分転換に別の教室へと赴くことにした。
「よし、ここにしよう」
そこは音楽室だった。席が並び、前にはピアノが置かれている。
「よいしょっと」
椅子を引いて座る。いただきます、と手を合わせて、お弁当を食べる。今日の卵焼きは自分で作ったのだが、なかなか上手く巻けたのでは一人で自慢げになった。
「――ごちそうさまでした」
お弁当を片付けて、壁に備え付けられた時計を見遣る。
時間はまだあって、このまま教室に戻るのも何だか味気ない。
わたしは扉の窓から廊下を見た。
「誰もいない……よし!」
折角音楽室まで来たのだ。今は休憩時間でいつもよりも雑音が多い。音楽室の壁は防音になっているからあまり音も聞こえないだろうし、窓もばっちり締め切っている。流石に誰かに聞かれるのは恥ずかしいので。
本来は指揮者が乗るのであろう台の上に上機嫌に乗る。
息を吸って、声を出す。
曲のワンフレーズだけ歌ったり、あやふやなところもあったり。それでも、のびやかに気持ちよく歌う。
昔、ライブに連れて行ってもらったことがあった。
楽器の音が体に響く。綺麗な歌声が耳へと入って来る。
今まで聴いたことのない、鮮明なその音たちに心が震えた。
そうして、わたしは音楽の虜になったのだ。
思い切り歌っていたその時、ふと扉の外に視線を移した。すると、ぱちりと男の子と目が合った。
――み、み、見られた!?
顔に熱が集まる。きっと、今のわたしの顔は真っ赤に染まっていることだろう。
――入って来るな入って来るなー!お願いだからそのままスルーして!
心の中で唱えたものも、わたしの願いも虚しく扉は開き、男の子が音楽室へと入って来た。
わたしは台の上で固まったままだった。そんなわたしの姿を見て、男の子はぱちぱちと目を瞬かせた後、携帯端末を掲げた。
『こんなところで何していたの?』
「あ、えっと……」
『もしかして歌っていた?』
「いや、その……」
慌てふためくわたしに、彼はずいっと近づいて来た。
――きょ、距離が近い!
後ろに下がろうとして台から落ちそうになったわたしを彼は手を伸ばして支えた。
「ありがとうございます……」
『どういたしまして。取りあえず座ろうか』
「はい……」
わたしたちは椅子を引っ張って来て、向かい合うように座った。
携帯端末を弄る姿をじっと見つめていると目が合った。
『ごめんね、僕、耳が聞こえなくて』
とんとんと耳の補聴器を軽く叩いた。
わたしは慌てて鞄の中から携帯端末を取り出した。
男の子が次々と文章を打ち込んでいく。
彼に倣って、わたしも携帯端末を操作する。
『音楽好きなの?』
『うん』
『歌うのも?』
好き、と即答できなかった。
わたしは歌うことが好きだ。でも、誰にもそのことを話したことはなかった。昔、歌うことが好きなのをクラスの子に伝えたら『下手なのに?』と言われた記憶が頭を過った。
『わたし、音痴だから……』
『何で?たとえ音痴でも、歌うのが好きっていうのは可笑しなことじゃないでしょ』
彼はあっけからんとそう言ってのけた。そのことに驚いてわたしは目を見開いた。
『僕もね、音は聞こえないけど、ピアノを弾くのが好きなんだ』
彼が手を胸の前に掲げて指を動かす。ピアノを弾いている真似をしているのだろう。
わたしは彼に訊ねる。
『……ピアノ弾くの楽しい?』
『すっごく楽しい!』
堂々と言われた言葉にわたしはぽかんと口を開いた。
こんなにはっきりと自分が好きなことを言っていいんだって思った。
――そうか、堂々としていていいんだ。
そんな考えがすとんと胸の中に落ちた。
話を聞くと彼は空き時間に音楽室のピアノを弾きに来たとのことだった。
『何か聞いてみたい音楽ある?弾けるかも』
『えっとね、昔流行った曲なんだけど知っているかな……』
それからというもの、彼――凪冴くんと話すことが多くなった。クラスメイトだと気づいていなかったのはわたしだけだったらしく、凪冴くんに笑われて恥ずかしかった。
共に音楽が好きなもの同士、わたしたちが意気投合するのは早かったと思う。
『僕がピアノを弾いて、静玖が歌うっていうの、やってみたくない?』
『……うん、いつかね』
『よし、約束だ』
わたしたちは小さな約束をした。いつか二人で音楽を奏でよう、と。
そんな勇気はわたしにはなかったけど。
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