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雨の降る夜だった。
クラスメイト達とカラオケの帰りで、家に帰る途中で雨に降られた。
とはいえ、駅から自宅まで歩いて10分の距離であり、駅でぐずぐず時間を潰すよりも、そのまま濡れて帰った方が、最低まで落ち込んだ気分が良くなりそうな気がした。
ざぁっと、激しく降る雨。
どうか、僕の身体にこびりついたタバコや酒の匂を洗い流して。
地面に打ちつける雨音は、どうか、耳にこびりついた下卑た笑いや、店員を罵倒する声や、わざと音程を外した歌声を濯ぎ流して。
どうか、雨の冷たさは、僕の中に巣食う凶暴な感情を浄化して。
アサミクン、コノキョクシラナイノ?
ウワッ、マジドクオヤジャン、ガキノコロカラヤキュウヅケカワイソウ
オレラガ、コレカラタノシイコトオシエテヤルカラ、カンシャシロヨ
アハハハハ……。
思い出したくない数時間前の一幕。
必死に人間のふりをするニンゲンミマンな僕は、不自然に硬直した右腕を引きずりながら、こんな日々に慣れていくしかない絶望感と、直面したコミュニケーション能力の偏りに頭を抱えるしかない。
ずっと盲目的に、野球をやってきたことによる弊害だ。
相手チームのサインを読んで解析することや、チームメイトたちとのコミュニケーションはキャッチボールそのものだけど、クラスメイト達とのコミュニケーションは、雑多な情報が混在する、無法地帯な地雷原を歩いているような、そんな気分になってくる。
ざぁっと、雨が、降る。
勢いを失いつつある、もうすぐ上がるであろう夜の雨が、中身のない空っぽのカバンと僕の身体を濡らして、遠慮も容赦もなく体温を奪っていくのだが構わない。
不肖の息子の濡れた姿に母は泣くかもしれない。
昔の父は、元気な証拠だと笑い飛ばしていたのだろうが、去年、僕が右腕をケガをしてから、どこか神経質な面持ちになって、僕が自分を粗末にするような行動を執るのを咎めるようになった。
まるで自分のせいだと言わんばかりに。
「……」
まだ歩いて5分なのに、雨が上がる。
滝のような水の束が、徐々にほどけて一本の糸になるような呆気なさで、雨上がりの雲間から月が出た瞬間、前方の人影に気がついた。
「「あ」」
と、お互いが、なぜそこにいるのか分からない顔で、一瞬立ち止まる。
同じ学校の制服で、同じクラスの何となく顔を覚えて、なにげない挨拶を交わすだけの間だというのに、この時だけは、お互いの名前がくっきりと脳内に浮かんで、直観的に同類だと理解した。
「浅海大智くん?」
「橘レイカさん?」
この子も僕と同じ、必死に人間のふりをするニンゲンミマンだ。
中途半端なセミロングの髪を顔にはりつかせて、雨に濡れた白い肌が月の光で青白く輝いて見える。手に提げているカバンは僕と同じからっぽで、それになにより、僕の関心をひいたのは、雨に濡れても抱える憂鬱が晴れることがない昏い瞳だ。
彼女も僕と同じものを嗅ぎ取ったのか、お互いがお互い顔と瞳をのぞきこんで、お互いの瞳の中に映る己の影を見て、訳もなく納得した。
彼女は、橘レイカは、僕――浅海大智と同類なのだと。
「浅海くん、もしかして、家近くなの?」
「うん。今年になって引っ越してきた」
「そうなんだ。私の家、この先なんだ」
「どうして、この時間まで?」
「部活。浅海くんは?」
「カラオケ。もう、最悪だった」
自然とお互いの頬と全身の緊張がゆるんで、青白い月の光を全身に浴びた僕たちは、当然のように両親が仕事でいない橘家で服を乾かしながら、一緒にお風呂に入って冷えた体を温めた。
「ありがとう。助かったよ」
玄関で別れを惜しむように抱きしめ合って、乾いた布の感触とシャンプーの香りを思う存分堪能し、僕たちはお互いの存在を確かめ合う。
時刻は夜の9時。
だいじょうぶ、息子の帰りを待つ両親の眉が、まだ上がりきっていない時間だ。
「うん、また明日」
「あの、近所なら、一緒に登校しようぜ」
「いいの?」
「うん」
「うれしい」
あぁ、駅で雨上がりを待たなくてよかった。
おかげで、彼女を見つけることができた。
もう独りじゃないという安心が、ようやく見つけた同類の存在が、こんなにも喜ばしいなんて、そんな日を迎えるんなんて、生きていて良かったと思ってしまった。
◆
僕は巡り合った同類の存在に浮かれていて、すっかり忘れてしまったんだ。自分の内側に潜む暴力性を。
――その数ヶ月後に、僕はクラスメイトを殴ってしまった。
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