01.今まで飲んだことはないけど

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01.今まで飲んだことはないけど

「ブラックコーヒーを飲める男の人ってかっこいいよね」  そんな声が松原郁人の耳に届いた。武藤佐保が柳沢彩乃と話している声がさっきから聞こえていた。そんな会話のうちのひとつのフレーズが郁人の耳に飛び込んだ。塾の帰り支度をしているときに。  武藤さんはブラックコーヒーを飲む男がかっこいいと思うのか。武藤さんはどんな人が好きなんだろう。そんな疑問の答えのひとつを手に入れたような気分で、郁人は涼しい顔で帰り支度をすませる。  それから郁人はさも自然さを装って佐保と彩乃の後ろを歩いてゆく。塾の出口に向かって。 「私、ブラックコーヒー飲めないからさ、ちょっと憧れるよね」  佐保が彩乃にそう言って笑う。その笑顔も郁人は目に焼きつける。  武藤さんのまぶしい笑顔。それだけで塾で勉強した甲斐がある。そんなふうにぼんやりと考えながら塾を出ると、外はもう真っ暗。 「松原くん、途中まで一緒に帰ろう」  郁人にそう声をかけたのは同じ塾に通う伊達星也だった。  郁人は星也と一緒に帰り道をゆく。夜八時過ぎの街。すっかり夜のなのに昼間の蒸し暑さがまだ残っていた。星也は別の中学に通う、同じ中2の生徒。この春からこの塾で顔を合わせているうちに少しずつ会話を交わすようになっていった。 「ねえコンビニに寄らない? のど渇いたし」  星也が少し先にあるコンビニの明かり見つめながら郁人を誘う。蒸し暑い空気の満ちる夜の歩道で。  ブラックコーヒーを試すチャンスだ。郁人はすかさずそう考える。 「うん。ちょうどコーヒーが飲みたい気分だったんだよね」  星也はコーヒー用のカップを買った。郁人もまたさっそくコンビニでアイスコーヒーのカップを買う。マシンでコーヒーをカップに注いだ星也は、ミルクや砂糖にも手を伸ばさずにそのまま飲む。 「星也はブラックコーヒー飲めるのか?」  郁人は星也にそう聞いた。星也は短く「うん」とだけ答えた。郁人のコーヒーも出来上がる。郁人はちょっと迷いながらも、コーヒーマシンのそばに置いてあるミルクと砂糖には手を伸ばさなかった。  佐保の言葉を思い出したし、星也もブラックのままコーヒーを飲みはじめたから。自分もブラックコーヒーくらいは飲める、はず。今まで飲んだことはないけど。
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