03.自分を誰にも悟られないように

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03.自分を誰にも悟られないように

 郁人の通う中学校はいま、合唱コンクールの練習中。隣のクラスの練習は厳しく、特に武藤佐保の指導が厳しいらしい。そんな話が郁人の耳にも届いている。たしかに隣のクラスはやけに合唱の練習に熱心だ。昼休みや放課後にいつも歌声が聞こえてくる。  考えてみれば、隣のクラスで合唱のリーダーをやっている佐保は2年生ながらにこの中学校の合唱部の副部長も務めている。だからこそ指導が厳しいのもうなずける。  それに引き換え、うちのクラスは合唱コンクールのやる気がない。今日も適当に指定された合唱曲を何度か繰り返したところで、練習は終わりとなった。  別に郁人だって合唱が特に好きでもなければ、コンクールで入賞してやろうという気もない。けど、佐保から厳しく合唱の指導を受けてみたい、という気持ちがないと言えば嘘になる。  どうしてちゃんと歌えないの! もっと大きな声で歌ってみて!  そんな佐保の厳しい指導の声が隣のクラスから聞こえるたびに、郁人の胸はどうしようもなくしびれるような感覚を覚えた。  そんなこと考える俺はおかしいのか?  帰り支度を済ませ、自分の教室から廊下に出た郁人はそう考えるけれど、どうしても佐保から厳しい声を浴びせられる自分の姿を想像することがやめられない。  隣の教室のそばを通る廊下に差しかかる。今日も佐保の厳しい指導の声が飛んでいる。窓ガラス越しに佐保の姿を目にして、その厳しい指導の声を聞く郁人の頭の中に、ひとつの妄想が浮かぶ。  どうしてちゃんと歌えないの! もっと大きな声で歌ってみて!  そんなふうに厳しい佐保の声が自分めがけて飛んでくる。二人きりの練習で。郁人は大きな口を開け、できる限りの大きな声で歌うけれど、それでも佐保は厳しい視線と声で……。 「郁人、じゃあな」  同じクラスの生徒のそんな声で我に帰った郁人。佐保に見とれていた自分を誰にも悟られないように冷静さを装い、その生徒に「じゃあな」と返しながらも、隣のクラスの連中が羨ましいばかりの気分は抜けない。  佐保があんなに一生懸命なのに、なんで隣のクラスの連中は不真面目なんだ? そんなことを考えながら隣の教室のそばを通り過ぎる郁人。本当はずっと窓際で佐保の合唱指導を見つめていたいけれど。
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