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07.なにもかもなかったことに
郁人は真っ黒なコーヒーの入ったプラスチックのカップを掲げる。
佐保はブラックコーヒーがほとんど減っていないカップを見つめる。それからおかしそうにくすくす笑いはじめる。
「ねえ、なにかおかしいこと言ったかな?」
郁人は不安になって佐保にたずねた。
「ごめんなさい。ブラックコーヒーが好きだって言ってるわりにはコーヒーが減ってないし、さっきコーヒーをひとくち飲んだとき、松原くんがものすごく苦いのを我慢してる顔をしてたから」
郁人は今すぐここから逃げ出して、なにもかもなかったことにしたくなった。けど、今さらどうしようもない。
「あっ、いや。その……、なんていうかさ。ちょっと飲んでみたいって思って。いや、ときどき飲んでるんだよ」
慌てて取り繕うしかない郁人が言葉を口にするたびに、かえってなにもかもがウソくさくなってしまうのを、郁人自身がいちばんよくわかっていた。けど、今となってはごまかして繕うことしかできない。
「松原くんって思ってたよりも面白い人なんだね」
佐保はクスクス笑いながら、そう言った。
「ねえ、そんなに無理してブラックコーヒーなんて飲まなくていいのよ。家に帰って牛乳と砂糖を入れて飲んだらどう?」
そう言って、佐保は自分の家に向かって歩き出した。
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