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やっとのことで、異常事態に気付いたかのようにアラームが鳴り響いた。本当は十分前を知らせる設定だが、あまりの状況に終わりですと逃げた。
「なんでミリちゃんって名前にしたの」
「一ミリ、二ミリってくらい取るに足りない存在だから」
またね。と儚さを演出してドアを出る。豚野郎は何も返答せず、ニヤニヤしながら私を見送った。背中に寒気がした。
さすがに二時間は堪えた。異常な性癖の持ち主だとは思っていたが、度が行き過ぎたプレイに殺しにかかっているのではないかという気概すら感じた。縛られた時間が長過ぎて足が痺れている。体を引きずりながら迎えの車に向かった。
「ミリちゃん。大丈夫?」
眉をハの字にしたケンゴ君が顔を覗き込んでくる。彫りの深い顔立ちで背も高く今風の若者だ。
「いつものこれ」
GFCを受け取り、また指で飲み口を拭き取る。喉に流し込むと激痛が走った。反射的に吐き出すと赤い血が混ざっていた。
「これはひどいよ。さすがにもうクレーム入れた方がいいんじゃない?言いなりになるのよくないよ。それとも俺が今からいってこようか」
ケンゴ君は送迎だけじゃなく素行の悪い客がいると、女の子を守る用心棒としての勤めもある。今にも拳を振りかざしていきそうだ。
「ううん。大丈夫だから」
喉の奥が切れてうまくGFCが飲めない。何度もえづく。連続した吐き気が存在を主張した。アルコールで生を誤魔化してきたのに。アルコールまで飲めなくなってはさすがに困る。ケンゴ君の言う通り、クレームを入れてもらおうか。最後のひどいのだけ控えてもらうように。
事務所に戻るまでの間もケンゴ君はずっと気を遣ってくれた。全然関係ない与太話や先のサディストの悪い噂話で私を笑わそうとしてくれた。
駐車場に止めるとケンゴ君は一目散に事務所に戻り、私の代わりに先の件を報告してくれた。あまりにひどい行為をすると派遣できなくなる旨の忠告をすることになったらしいが、あのオーナーが本当に客に電話するとは思えない。ユキさんが聞いたら、なんで若い子だけひいきするのとまた片麻痺な顔をするだろうか。
『孤立系』は何物にも影響を受けない。
孤立にある孤独は永遠だ。
大きなため息をつく。
待機部屋で針時計を眺めていると、秒針が十二時を刺した瞬間止まった。
「うそ……」
時間が止まったのかと思えば、天井のファンは変わらず回っているし、オーナーも愛想良く電話をしている。電話口はあのサディストの客だろうか。
時計の電池がなくなる瞬間を見ただけだった。時間は止まることなく進み、世界は底辺をすり減らしながらも回っている。摩耗しくたびれた私に誰も干渉しない。秩序は秩序としてあり、アリはアリで猫は猫だ。変わることもなく底辺は底辺のまま世界は足を止めない。
いつのまにか震える手を握りしめていた。指を開くと、嫌な汗を握っていた。吐いたため息が鉛みたいに重い。鼓動は速まり、パニックを起こしそうな自分を遠くから見ていた。おもわず口を両手で抑える。
自分の時間だけなら止める方法はひとつだけある。至る方法はまた様々で、1限の薬理の講義でベンゾジアゼピン系の睡眠薬では死ねないと聞いた。脳の鎮静の受容体の構造のせいで、瓶一本丸々飲んでも死には至らないそうだ。それならば、大量に服薬して密室を作って一酸化炭素中毒で死ねばいいし、別のバルビツール酸系の睡眠薬ならば死に至る可能性は充分にある。
まだ手が震えている。目の焦点が合わない。呼吸にもコツがいる。今にもカーペットに嘔吐してしまいそうだ。こうやって少しずつ私はこわれていく。
社会の輪からもはずれて孤立し、体を切り売りして卑しく自己肯定を得る。持てる知識をジグソーパズルみたいに並べては壊し、誰が見るわけでもないのにまた並べ直す。オーナーが呼んでいる声が聴こえる。
「ごめん。先の先で悪いんだけど、行ってくれる?新規の団体なんだ」
「え、わたしですか」
ケンゴ君がオーナーに先の先ですよ。休ませてあげましょうよ。と間に入ってくれる。
「頼むよ。それが団体様でさ、五人いるんだよ。今四人しか空いてないし、他も出ちゃってるから。団体で一人だけ待たせるのも悪いじゃん。ね?電話口の感じだと出張できた普通のサラリーマンだからさ。こっちも仕事だと思って。ケンゴはミリちゃんひいきし過ぎだ。他の子からもクレーム入ってるぞ。いいか。プロの仕事なんだ。お前は四人を運べ。ミリちゃんは別便で運んでもらうから」
オーナーがケンゴ君に釘を刺した。本当は絶対、女の子からのクレームなんて入っていない。そういう裏を取らせない口先だけの卑怯なやり方には吐き気がする。運べという言い方も私たちをコマだと無意識に思っている証だ。ケンゴ君の代わりに私が返事をした。
「わかりました」
なおも食い下がろうとするケンゴ君もそれで、渋々駐車場に向かっていった。どうせ消耗品のコマだ。良いように使われてやる。
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