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それから、私は大学終わりには毎日と言っていいほど足立さんの滞在するホテルに通った。くそ課長に連れ出されて足立さんが飲みに出た夜も、深夜にも関わらずやっと解放されたとラインがくれば部屋まで行った。
私たちは無我夢中でセックスをした。
はじめて会ったときの行為は淡白で不器用なものだったが、人が変わったように足立さんは情熱的に私の体を欲した。それに満たされた。バイト先からの連絡は完全に無視して足立さんに集中した。情慾の一夜を飾るようにこの時を大切にした。
ああでもない、こうでもないと殺人計画を立てるうちに、実際にその課長がどんな人物なのかという話になった。
「そういえば、無茶苦茶な不摂生がたたって、心臓が悪いんだよ。薬いつも飲んでるな」
「それ……それだよ。足立さん、なんの薬かわかれば利用できるよ」
「たしかに、なんでもっとはやくに気が付かなかったんだろう」
「薬の名前をメモしてきてよ」
「それがさ、飲み忘れが多すぎて、一回ごとにパック詰めされてるから名前わからないんだよね」
「錠剤にむかれてるってことか。いや、余計に有利だよ。それをすり替えちゃえばいいんだもん」
「新しいな。画期的なトリックだよ」
私たちはミステリー小説のトリックから現実的に近付いていくことに喜びを禁じ得なかった。薬の情報はお薬手帳か、説明書から奪えばいい。次の飲みの席で足立さんはそれを見てくると言った。
「けど、中の錠剤をどうやってすり替えるの。あのパックを開けちゃったら穴が空いて怪しまれるよ」
「大学に実習用のパック詰めの機械があるので、隠れて作ってきます。丸ごとすり替えるの」
「なんでもあるんだな」
「とにかく薬の内容だよ。不自然に本人にたずねちゃだめですよ。無理なら錠剤の写真だけでも撮ってきてくださいね。記号で調べられるから」
「そうなの?」
「大学にある治療薬本で」
「すごいね」
その夜はそのまま朝まで話し込み、日が上がり始める頃に眠ってしまった。誰かの腕の中で眠ることが久々過ぎて、子供の頃の夢を見た。習い事の帰り、父が運転する車の後部座席で母に膝枕をしてもらう夢だ。不思議とあの時間だけが母に甘えられる時間だった。習い事のバレエや、ピアノはどんなに頑張ってもなかなか上達せず、褒められることがなかった。短い帰り道だけが教育の狭間のようでよく甘えたものだ。カーテンの隙間から差す朝日がまどろみにいざなった。
三限目の終わりから鳴り続ける電話をさすがに無視し切れなかった。鬼電の相手はバイト先だ。帰り道に鳴った電話を取る。オーナーだ。
「あ、ミリちゃん。よかったー。やっと繋がった。今日、出れないかな。今日だけはほんとに人がいなくてさ」
「ユキさんは大体皆勤なんじゃないんですか」
「子供が熱出しちゃったみたいでさ、今日はお休みなのよ。お願い。出てきて」
「え、ユキさん子供いるんですか」
「シンママだからさ、ユキさんも大変なのよ」
その事実に驚きつつ、断りきれずつい出勤すると答えてしまった。
電話を切って大きなため息をつく。
今夜は足立さんがくそ課長と飲みにいくので、会えたとしてもどうせ遅くなる。
ちゃんと足立さんは薬の情報を取ってこられるだろうか。
久々に出勤した事務所は閑散としていて、いつもの香水臭さと代わってカビの匂いがした。エアコンもだいぶ古いし掃除もしていない。
「ミリちゃん。久しぶり」
ケンゴ君だ。
相変わらずの人懐っこい笑顔で寄ってくる。
オーナーはどこかと電話していて目だけで挨拶をしてくる。
「体調大丈夫?」
「体調が悪かったわけじゃないの。ケンゴ君は元気だった?」
「俺はいつも元気だよ。ミリちゃんさ、なんか前より顔色いいような気がする。肉付きもよくなったような」
一歩下がって、私の全身をしげしげと眺めながらケンゴ君が言う。
「ちょっと失礼なんですけど」
笑って私が言うとケンゴ君が驚いたような顔をした。
「ミリちゃんのそんな笑顔初めて見た」
しどろもどろに目線を逸らす。
「あーミリちゃんも昼の世界に戻っていっちゃうのかな」
「どうして」
「太陽の匂いがする」
嘘だ。
「自分ではわかんないもんだよ」
そう言うとケンゴ君は私の頭をポンポンと叩き、歩いていった。
「ミリちゃん。ごめん。一人予約入った。いける?ちょっと、あれなんだけど」
「あれって」
「うーん。お年上というか、ご年配というか」
他の女の子たち数人は一斉に目を合わさないように俯いた。嫌な役はいつも私に降りかかる。またケンゴ君とオーナーがもめるのが嫌で、渋々了承した。ちょうどケンゴ君が席をはずしている今のうちに受けてしまおう。
事情を知らないままのケンゴ君にホテル・オリーブまで送迎される。車の中で最近あった出来事や、ユキさんの家庭事情まで教えてくれた。どうやら、この辺では一応大手のこのバイト先は夜の保育園を併設しており、様々な事情を抱える母親が子供を預けることができる。
「意外と福利厚生とかあるんだね」
「こんな職場だけど意外にね」
ぷっと吹き出すように笑うと、車のナビが到着を知らせた。楽しい気持ちが塞がる。息を吐いてWi-fiを受信できる体にする。梨花ではなく、ミリになる。
「今日はさきにこれいっとく?」
ケンゴ君がGFCをかざした。
「うん。ありがと」
飲み口を指先で拭い、ぐいっと流し込む。だが、なんだか気持ち悪くなって飲むのをやめた。
「終わりの分も買ってあるから、待ってるね」
曖昧な笑顔で返事をしてから車をあとにして、古い受付に進んだ。
いつものおばちゃんが、あぁと声を漏らし、鍵を渡してくる。顔は認識されているらしい。
建てつけの悪いドアをノックし待機する。
足立さんを思い出しそうになっておもわず唇を噛んだ。別に他の客を取ろうが彼を裏切るわけではないのだ。彼にはそもそも東京に家族がある。
いつも夜九時には電話をする家族はどんな人たちなのだろう。おそらく子供もいる。その間、私はさもなんでもないような顔をしてベランダでタバコを吸ったり、買い出しに行くなんて理由をつけて外に出たりする。
「どうぞ」
「ミリです。よろしくお願いします」
扉を開けたのは意外にも肌艶のよい溌溂とした老紳士だった。
六十代後半くらいだろうか。お金に余裕のあるタイプの空気感だった。
「失礼します」
「適当にかけてくれ」
椅子に促され腰掛ける。どうやら緊張をしているのかぎこちない。夜の店に慣れていないのなら、この歳でなぜ若めの店のデリヘルを呼んだのか疑問が浮かぶ。
「すまないね。こんな老人がこんな若い子を呼び立ててしまって。お金いくらだったかな」
「いえ、そんな老人になんて見えないです」
一応のお世辞を並べながら会計を済ます。どんなに若く見えてもやはりご年配はご年配だ。
「今日はどこかで飲んだ帰りですか」
「いや、私はあまり酒はやらない方なので」
会話が途切れる。緊張を解こうとするが、一文字に結んだ口は固い。糸口を探す。
「こういうお店はお久しぶりですか」
「そうだね。何十年ぶりかな」
「そんなに」
意を決したように口が滑らかになってご老人は語り始めた。瞰野と名乗った。
「実は今日は誰かに話を聞いて欲しくて呼んだんだ。私はあっちの方は一度心臓を悪くしたせいでもうすっかり枯れているから心配しないでくれ」
あっちの方と言うとき股間の前で指を下に倒す仕草が可笑しくて笑ってしまう。
「ご家族は?」
「人並みにいる。長く寄り添った妻も健在だよ。子供も孫も関東で暮らしてて、たまに帰ってきてくれる。けど、去年に定年退職をしてからどうも具合が悪い」
「それは体調の方ではなさそうですね」
「そう。ずっと仕事人間で生きてきた。体は頑丈だ。これでも銀行の支店長としてちゃんと家族を守ってきたつもりだ。何人もの部下も育ててきた。タバコもギャンブルも酒もやらず、これといった趣味もない。仕事が私の見る世界のすべてだった」
「ご立派だと思います」
心からの言葉だった。だが、そんな人間がわざわざデリヘルを呼んで話を聞いてほしいとはどんなことなのだろうか。
「退職をした後のことだ。ずっと家のことは妻に任せてきたから余生はゆっくり旅行にでも行こうかとそれくらいに思っていたんだが……」
「あ……まさか熟年離婚」
「ちがうんだ。それがそんなこともなく妻とは旅行に行ったりもした。コロナ禍だったから国内だがね。そんなわかりやすい具合じゃなくて、妻と話すことがないんだ」
どういう意味かわからなくて言葉をのんだ。
瞰野さんは気にせず話を続けた。
「妻だけじゃない。気がついたら誰ともそうなんだ。仕事以外で飲みにも行かなかったので、飲み仲間もいない。趣味の友人ももちろんいない。家で毎日毎日テレビを見ている。働いていた頃に周りにいた人たちがいつのまにか誰もいなくなっていた」
「仕事仲間に連絡を取ってみるとか?」
「そう思って気がついたんだ。わざわざ仕事以外で会う同僚や部下もいないことに」
いよいよ話が見えなくなって私は首を傾げた。
「私は社会から孤立してしまったんだ。今までは評価権があったから周りに人がいただけ。仕事という社会との繋がりがなくなった時点で分断されてしまった。それがどうにもつらいのだと気が付いてね」
こんなところにも『孤立系』はあった。
社会に隷属してきたものすら用がなくなれば切り捨てられるのか。
「それで、今日慣れない電話をかけてみたと」
「ああ、酒も飲まないので馴染みのスナックも持たない私には個室で会える業態がいいと思って。けど、こんなお若い方に老人の無駄話に付き合わせてしまって申し訳ない」
真面目で実直に生きてきたその素朴さが魅力に思えた。
「じゃあ、今日は私といっしょに打開策を考えましょうか」
「いっしょに……」
「ええ。どうしたらその孤立を解消できますかね。好きなこととか趣味は強いて言うならなんですか」
「それが本当に仕事しか思いつかなくてね」
「じゃあ、それこそもう一回働いたらどうです。週何回かのパートでもいいじゃないですか。自然と仕事の話なら家庭での会話も増えるし今度は職場の仲間をプライベートでも大切にしたらどうでしょう」
「もう一度働くか……」
「この店のドライバーなら募集してましたけど、瞰野さんならもっといい募集ありますよね」
苦笑いでそう言うと、くしゃっとシワが深まる優しい笑顔を返してくれた。
「こんな老人に夜のドライバーは危険だよ。もうお眠の時間だからね」
思わず噴き出して笑った。瞰野さんのいたずらな表情がおかしかった。
その後はリラックスしてくれたようでいろんな話を聞かせてくれた。要職時代の話や、家族のことも。
心臓を悪くして路上でうずくまった話、そして、薬が嫌いで飲み残しが大量に余っているのを妻と医者にバレないよう、鞄の面ポケットに隠していることまで。おもわず目が止まった。
「ありがとう。いっしょに考えてくれて」
「え。あ、はい」
時間いっぱいまで話して終わりにそう言われた。ホテルの部屋に置いてあったインスタントコーヒーを今日初めて飲んだ。瞰野さんが淹れてくれた。
「いえ、けどもう来ちゃだめですよ。奥さんにヤキモチ焼かれるし、それにお話するにしてはお高過ぎるので」
「君は本当に優しい人なんだろうね」
胃がキュッとしまって思わず頭ごなしに違うと言った。瞰野さんは気にせず微笑んだ。
「少なくとも私は今夜独りじゃないと思えた」
大きな背中を見えなくなるまで見送った。振り向くたびに手を振った。
スマホを見ると足立さんからラインが返ってきていた。
殺人計画についてだった。
思わず声が漏れた。
誰かの孤独を癒やして、誰かに褒められて、誰かに必要とされて、そんなことで喜んでいる自分と、顔も知らないどこかの誰かを殺そうとしている自分が同じ人間であることに驚く。
乖離している。
ミリと梨花。
私は、誰かに褒められたくて誰かを殺すのだろうか。
孤立している自分を誰かに繋ぎ止めるために、今日もまた手を汚した。
「ミリちゃん。おつかれ。これ飲む?」
「ケンゴ君。今日は大丈夫。ありがと。ごめん。今日あがるね」
「そっか。なんか用事?」
「ちょっと大学へ」
「大変だね。オーナーには俺から適当に言っとくよ」
「いつもごめんね」
「ねえ、ミリちゃん!」
「ん?」
振り向くと、夜に咲くひまわりのような笑顔のケンゴ君に抱きしめられた。
「今度俺とデートしない?」
「え、こらこら。オーナーに怒られちゃうよ」
「バレなきゃ大丈夫だって。ミリちゃんとプラネタリウム観たいな」
くすりと笑ってしまう。
どうして夜に働くのにわざわざ人工の夜空を観に行きたいのか。
「いいけど」
「やったね。じゃあまた予定合わせよ」
ケンゴ君は無邪気に跳ねて手を振ってきた。
子供のように健気で、顔も良くて気立てもいい。他の子にもこんなことを言っているのだろうかと思うと少し胸がしくしくした。
おとなしくこっちの世界だけにいれば私がこれからやろうとしていることをしなくてもすむのだろうか。
見上げた夜空に星はない。
まだまだ夜は長い。大学に向かって歩き出す。
この時間ならまだギリギリ実験をしている生徒に紛れて研究室に入れるはずだ。ポケットには瞰野さんの飲み残しの薬が入っていた。
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