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薬学棟の夜間入り口は外からは入れないので、中で研究をしている友人に電話をして開けてもらう。だが、私にはそんな友人はいないので誰かが出てくるまで辛抱強く待つ。人影が見えて、ちょうどのタイミングだったかのように見せかけ、すれ違うように校舎へ入る。八階の自分が所属する研究室までたどり着くと鍵を使って中へ入る。製剤学研究室だ。
まず、足立さんから送られてきた課長のパック詰めされた錠剤を見て、何の薬か調べる。中身は心臓の薬と胃薬だった。どれもポピュラーなものばかりだ。
近年の心臓の治療としては、疲れた心臓を薬の力で強心的に動かすのではなく、あえて休ませるような薬を内服する。そのガイドラインに変わったのは十年以上前だが、以前の治療方法とはまるで真逆のことだ。
よくミステリー小説で出てくるジギタリス系の薬を飲んでいてくれたら量を増やして殺せたのにな。ジギタリスは強心薬だ。以前は心不全といえば、心臓が止まらないようによく使われていた。だが、今の臨床では真逆のガイドラインになってもうあまり使われない。
そもそも、足立さんと話している時、司法解剖された時に薬の血中濃度が高ければ何者かに操作されたと疑われるのではないかと話にあがった。
「けど、コンプライアンス悪くてちゃんと内服してないんでしょ」
「飲み忘れることは多々あっても飲み過ぎることは中々ないから。呆けたおじいちゃんでもない限りね」
「一理ありますね。それなら、薬を飲ませなかったらいいんじゃないかな」
「最近、課長のやつ、さすがにもうやばいって医者に言われててちょっと気をつけてるんだよ。飲みの席でも忘れないように薬を机に出してるし、アラームも奥さんに設定されてて。飲ませない方法が難しいよ」
「いや、いい考えがあります」
私の名案に足立さんは手を叩いて喜んだ。リアルな薬学生ならではのアイデアだと。
メーカーから支給される錠剤のサンプルがある。中身がラムネのプラセボ錠剤だ。PTPシートの上2錠だけ梱包されており、残りは空っぽのサンプルシートだ。主に製薬メーカーが医療機関に配るのだが、この製剤学研究室には溜まりに溜まったサンプルが転がっている。その山の中から課長が内服している錠剤を拾い集める。
要は飲ませなければいいのだ。
ちゃんと内服しても、中身がラムネのプラセボ錠剤を飲み続ければすでに不全を起こしかけている課長の心臓は自ずと疲れ果て停止する。もし、司法解剖をされて血中濃度を測ったとしても出てくるのはラムネの砂糖成分だけ。ちゃんと内服しなかったのだろうと高を括られるのがオチだ。
サンプルを集めて実習用の部屋へ移動する。予備の鍵は管理をしているこの研究室にある。ひとつ下の七階だ。なるべく平静を装い、なるべく人に会わないように心がける。こんな時間まで研究をしているのは院生か、研究が大変な薬理系の研究室だけだ。もともとやる気のない研究室の私がうろついているだけで既に少し怪しい。
電気がついていない実習室をみて安堵する。さっさと済ませてしまおう。電源を入れて立ち上がるまでの時間がやけに長く感じる。誰も来るなと願う。分包機を立ち上げれば画面が光を放つ。部屋の電気をつけないのは不自然だった。
平静を装っていれば大丈夫。この研究室の生徒なのだから。
ユーザーIDとパスワードを入れて、すぐに足立さんから送られてきた課長の薬の写真通りに印字を真似る。データを飛ばし、機械にプラセボ錠剤を慎重に入れていく。ここで間違えては元も子もない。
2週間分の錠剤を機械に入れ終えて息を吐いた。
果たして2週間薬を飲まなかっただけで課長はちゃんと死んでくれるのだろうか。足立さんを苦しめるあの心臓はちゃんと止まってくれるのだろうか。
ポケットに入れたままの瞰野さんの薬をおもわず触る。
いっそのことこれをいれてしまえば、足立さんと私の殺人計画は完璧なものとなる。
瞰野さんの薬は強いジギタリス系だった。
記号が違うだけで見た目もぱっと見変わらない。
まさか自分が薬をすり替えられるとは普通の人間はゆめゆめ思わない。多少の違和感と共に気のせいだろうと飲み込んでしまうだろう。その後、課長が死に司法解剖となったとしても、未来永劫、足立さんと同じ罪を背負うことができる。
突然警報音が鳴り始めた。頭が真っ白になって動揺する。
「どうしよ……」
警報音は、速熱中です。しばらくお待ち下さいと言っていた。
パックを焼いて留める際の熱がまだ温まっていないのだ。
音を止めてあたりをうかがう。
人の気配はない。
手に汗を握っていた。
普段は汗なんてかかない体質なのに、交感神経が刺激されているせいだ。
ガチャンと音がして機械が動き始めた。
写真の通りのパック詰めされた錠剤たちが吐き出され始め達成感すら感じる。椅子に座って安堵したその時だった。
「なにしてんの。梨花、こんな時間に」
最悪のタイミングで最悪の同級生に会ってしまった。
わかりやすく大学生を謳歌するグループのリーダー的存在の亮太だ。必死に言い訳を絞り出す。
「ちょっと知り合いに頼まれて」
「パック詰めをか。薬局にやらせろよ」
亮太は外資系大手の製薬メーカーに内定が決まっており、薬局で働くことを下に見ている。パーティーや、クラブだとかを好み、都会で働くことを夢見ているおぼっちゃんだ。
「もう終わるから。部屋開けるね」
視線が、機械が吐き出すパックの印字を見ていた。くそ課長の名前を見られた。遮ろうにもまだ機械は繋がったパックを吐き出し終わらない。
「咲子主催のコンパサボったらしいじゃん。怒ってたぞ」
「私、そういうの苦手だから」
「お前がそんなだから心配してくれてんだろ。それとも彼氏でもできたのか。その薬誰のだよ」
心臓を冷たい手で撫ぜられたような気がした。背中まで粘液が飛び散ったような嫌な気分だ。
「これはただの知り合いのだよ」
「ふーん。噂で聞いたんだけど、梨花ちょっとした夜のバイトしてるんだって?そこで知り合ったんだろ。どこのおっさんだよ」
当たらずとも遠からず勘の鋭い男だった。
噂が立っていることにも驚いた。デリヘルならば特定の客としか顔を合わせないのでバレにくい業態とは思っていたのだが甘かったようだ。
「なあ、明日の夜俺に付き合えよ」
「え」
「俺いろいろ知ってるぜ。今日のことも含めて黙っててやるから」
「……わかった」
女を服従させて自己を肯定する。
典型的な自分に自信のないマザコン体質の男だ。めんどうなことになった。今日は連れがいるので見逃してもらえることになったのが救いだ。同級生で清楚を装っている彼女といっしょに帰っていった。
かなり飲まされたようで足立さんはふらふらでホテルに帰ってきた。肩を貸して部屋まで移動する。お互いに今日のことをなし得るまでに苦労があった。
「水持ってくるね」
「ありがとう。本当にあの課長はやく死んでくれよ」
「もうすぐだよ。はい、どうぞ」
水を煽るように飲んで、そういえばみたいな顔で足立さんは写真を撮ってきたことを誇らしそうに話し始めた。
「どうだった?写真。机に投げっぱなしにされてた薬のパックをさ、ちょうど誰も見ていないタイミングで隠し撮りしたんだよ。我ながらスパイさながらのドキドキだったね」
「これで何飲んでるかの情報が取れたよ。お疲れ様」
「水もういっぱい」
コップを受け取り、ケトルから冷めた水を注ぐ。
今夜亮太に見られたことは言わないでおこうと思った。
足立さんに迷惑をかけたくないというよりも、こんなことで計画を頓挫したくなかった。足立さんはビビってもう止めておこうなんて言い出しかねない。そうしたら、もう足立さんとの唯一の共通点を失ってしまうのだ。今の私には足立さんとの殺人計画がすべてだった。
「これ作ってきた」
「え、なにこれ。本物?」
足立さんのいう本物がなんの真偽かがわからなくて曖昧な返事をした。
「あなたのくそ課長用」
「まじか。これ飲み続けたら課長は本当に……」
「サヨナラです」
「すごい。すごいトリックだよ。あとはこれを俺がすり替えたら完全犯罪だ」
「足立さんは自由になれるよ」
酔っているせいかテンションが高い足立さんは子供のように無邪気だった。抱きついてきてそのまま上目遣いに目を見てきた。そのままなし崩し的に私たちはセックスをした。殺人計画を前に気持ちは昂ぶった。
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