殺人計画

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 翌朝の土曜日、足立さんのホテルから一旦自分の部屋まで帰り、準備を済ませてまた大学に向かった。薬学部は土曜日も補講があるのだ。  松川沿いの道を歩きながら、もう今日は遅刻してもいいかと歩を緩めた。亮太に会うのも面倒だ。いっそのことサボって亮太からもバックレてしまうか。 「こんな所でひなたぼっこ?」  ベンチに座って足をぶらぶらさせていると見知らぬ主婦から声をかけられた。子供を乗せる用の自転車に跨って微笑んでいる。 「私、ユキ」  開いた片手を口元にあてて小声で言った。 「あ、おはようございます」 「昼間に会うとわからないもんだよね」  曖昧な返事をして言葉のやり場に困る。  なんで話しかけられたのかわからなかった。普段、嫌味ばかり言われるので街中で会っても気が付かないフリをするものだと思っていた。 「この前はありがとね。シフト交代してくれて」 「シフト?ああ、いえそんな」  違和感を覚えた。  この人はデリヘルの仕事を、普通のバイトのシフトのように捉えているのか。普通の主婦が、子供の発熱でバイトを休み、その代わりを頼むみたいに。  私はこの仕事にそんな責任感を持たずにいたので驚いた。いつ休んでも誰に迷惑をかけてもいいものだと。 「お母さんなんですね」 「そうよ。こんなでも一応ね。母親なのにやめられないのよ。この仕事。稼がなきゃいけないし、子供も私みたいにならないように将来ちゃんと大学へいかせてあげたいしね。国の当たり前にある福祉じゃ足りないっての。シングルは大変よ」  自転車の後ろの座席には子供はいないようだった。  おもわず目をそらしてしまう自分がいた。  どんな疑問も質問にするのは憚られる。 「私ね、あなたみたいな大学生が羨ましいのよ」  いつものが始まった。ユキさんは気にせず続けた。 「高校も中退してさ、ダメ男と結婚して子供作った私からしたら大学生って眩しくてね。歳も食ってこんなバイトしててたまに虚しくなるのよ。あなたみたいな無気力な子みるとまた無性にね」 「すみません……」 「責めてるわけじゃないのよ。私が悪いの。私だって一度はこのバイト足洗おうとしたことあったのよ。けど、いまさら生活水準なんて下げられないし、普通のバイトの大変さと人間関係の面倒さと安い給料に耐えられなくてね。精神やっちゃってさ、一度生活保護まで受けかけたこともあるんだけど、役人に根掘り葉掘りプライベート掘り返された時に、夜のバイトでチヤホヤされてきたプライドが邪魔してさ、それも断ってまた夜の世界に戻ってきちゃったわけ。歳を十も誤魔化して」  両手を叩いてユキさんは白い歯をむいて笑った。  こんなところにも『孤立系』だ。  ユミさんは体の売り買いに介在する需要と供給の一致に自己肯定感を覚えている。シングルマザーという社会的弱者という立場では自己を肯定できず孤立し、体を求められることでしか自己肯定できない。強い刺激を覚えるともう元の刺激では反応しないニコチン受容体のように。  みな、孤立して、孤独なのだ。  たとえ、子供を産んだとしても安定した将来のことまでは保障なんてしてくれない。孤立は連鎖する。  それならば社会とは一体何を包含しているのだろうか。  そんなことを思って青い空を見上げていると、一人で喋って満足したのかユキさんは去っていった。またバイト先でと言葉を残して。  私はスマホを取り出し、普段使わない電話番号をコールした。やらなければならないことをやろうと思った。  亮太から待ちあわせ場所に指定されたのは、城趾公園の博物館がはめ殺しの窓からみえるバーだった。夜空に浮かぶ城を模した建造物が鈍色に照らされている。  カウンターの前ではすでにカクテルを飲んでいる亮太が1人でいた。いつも誰かとつるんでいるので1人でいる風景が不思議にみえた。こちらに気が付くと眉を上げて手を振ってきた。 「よう。今日授業サボったろ。俺から逃げたかと思ったぜ。ノートでも貸してやろうか」 「別にいい」 「いいのか?他に貸してくれる友達なんていないだろう。何飲む?」  亮太のカウンターに置かれていたショートグラスを右手の親指と人差し指で持ち上げる。一気に飲み干して言った。 「まどろっこしいのはいい。したいんでしょ」 「いいねぇ」  下卑た笑顔を浮かべ、亮太は椅子を立った。財布からお金を出す手は震えていて既に興奮しているようだった。  繁華街に移動し、ホテルを物色する。 「ちがう。こっち」 「いいねぇ。さすがだな」  ホテル・オリーブへ亮太を連れ込む。いつものおばちゃんが今日は目を合わさない。相変わらず水槽の青白いライトと目隠しの影が不気味だ。  ヤニ臭いエレベーターであがっていく途中でキスをされた。 「まだダメ」 「もう我慢できねぇよ」  担ぎ込まれるように部屋へ連れ込まれると体を弄られた。抵抗したが亮太は強引で力が強かった。 「はーい。そこまで」  二人しかいないはずの空間に違う声があることに亮太はすくみ上がって後ずさりした。 「だれだ。なんでいる」  ケンゴ君は鍵をくるくる回しながら、椅子から立ち上がった。 「ミリちゃん大丈夫かい」  私は小さく頷いた。 「さて、彼がミリちゃんを脅そうとしているんだね。お話しようか」  そう言うとケンゴ君は拳を亮太の顔面目掛けて振り下ろした。 「痛えよ。やめろ、やめてくれ。親父にいいつけるぞ。チンピラ風情が俺に手を出すなんてありえないだろ」 「チンピラだから親父が誰だろうと関係ないんだよ」  ガツンと鈍い音と悲鳴、短い血が撥ねた。 「わかったよ、わるかった。言うこと聞くから。なぐらないでくれ」 「どうかな」  もう一発拳を振り下ろして様子がおかしいことに気がついた。  ケンゴ君は興奮していた。  目が血走り、パンツスーツが隆起していた。 「も、もういいよ。ケンゴ君」 「よくない。こういう輩はもっとわからせてやらないと」  亮太の頭を持ち上げて、今度は机に叩きつけた。 「ケンゴ君。ダメ。殺しちゃうよ」  ケンゴ君に抱きついて止めようとしたが簡単に振り払われる。もう一度机に叩きつけられる音がした。何か言葉にならない単語を叫びながらケンゴ君はまた、亮太を叩きつけた。 「やめて」  悲鳴と笑い声と断末魔の叫びが入り混じり、ケンゴ君は亮太をベッドに押し付けて首を絞めた。  いつか噂で聞いたことがある。  ケンゴ君のお母さんはパートナーに虐待をされていて、ケンゴ君自身はどちらからも虐待を受けていたと。体が大きくなってからお母さんのパートナーを半殺しにして少年院に入ったとか。  無邪気な好青年がそんなわけないと悪い噂だと聞き流していた。  だが、目の前にその映像が再現される。  ケンゴ君はまともじゃない。壊れてしまっている。  ウシガエルみたいな声が漏れた後はスプリングが軋む音だけが響いた。ばたつかせた足は次第に動かなくなり静寂が訪れた。  亮太は血まみれで息をしていなかった。 「ねえ、死んでるよ。殺しちゃったよ。ケンゴ君?」 「ごめん、ごめんよミリちゃん。俺、止められなくて」  体操座りをして顔を埋めてしまったケンゴ君は泣いていた。 「ごめんよ。これは俺がやったことだから。ミリちゃんは関係ないから逃げて」 「そんな。どうするの」 「わからない。警察がきたら俺がやったって言うよ。さあ、裏口から。受付のおばちゃんなら逃してくれる」 「どうして殺したの」 「ごめんよ。俺子供の頃から一度こうなったら止められなくて。俺さ、ずっとミリちゃんのことが好きだったんだ。ああ。また母さんにおこられるなあ」  サイレンの音と赤と黒の明滅が近付いてくる。  動かなくなった男二人を置いて私は部屋を後にした。おばちゃんが外にいて非常階段へ案内された。 「裏口から大通りまで抜けれるから逃げな」 「あの、私……」 「あんたはどこの水槽の魚かね。はやくいっちまいな」  淡水魚は淡水でしか生きられないように、世界にはそれぞれの正しい居場所がある。  『系』はどこにでも存在する。  おばちゃんのいう水槽も然り、ガラスが区分するのは生きる世界のことだ。  大多数がいる世界が社会と呼ばれ、それ以外は爪弾きにされてこんな裏路地のような世界で泥まみれになる。動かなくなった死体を思い出しておもわず立ち止まり嘔吐する。  じゃあ私は、どの系に属したらいいのだろう。  誰も私のそばにはいないこの水槽は何の水かわからない。足立さんに会いたくて仕方がなかった。
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