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妄想女の雨宿り
差し出されたタオルからはほんのりとサボンの香りがする。
前髪の先から落ちる水滴を拭いながら、にまにまと緩む頬を覆い隠した。
外回り中に軒下で雨宿りさせてもらっていたら、開店準備中の店に入れてもらえてラッキーだった。
夕立でびしょ濡れになったのは最悪だったけれど……。
雨足は強くなる一方だ。青い稲妻が雲を引き裂いたかと思うと、遠くで雷鳴が聞こえた。
「雷なってますね」
「そうですね」
「コーヒーでも飲みます?」
「いいんですか? いただきます」
カウンターの向こう側でカチャカチャと陶器の触れ合う音が聞こえてくる。いつもはBGMと客の話し声に消されて聞こえないのに。
この空間に二人きり。
改めて思うと緊張が押し寄せてきて胸が押しつぶされそうになる。
彼への気持ちが恋愛感情なのかはまだ分からないけれど、若き天才。カジュアルフレンチの新星。予約の取れない名店。イケメンすぎる料理人――彼を湛える言葉が増える度、これ以上有名にならないで欲しいと願ってしまう私がいる。
「あかりさん、でしたよね」
「どうして、名前?」
「確かそう呼ばれてたなって思って……あってました?」
「はい」
「よっしゃぁああ!」心の中で叫んだ。
毎週お高いディナーに通ったかいがあった。顔だけではなく、名前も覚えて欲しかった私は「奢るから」と友人を誘いカウンター席を予約して、「あかり」と何度も名前を呼んでもらったのだ。
「雨、早く上がるといいですね」
「……そうですね」
んな訳ない!!!! 雨、上がって欲しくない。
もしこのまま大雨にでもなったら公共交通機関もマヒして、開店もできず、彼と二人きりで一晩過ごすことに……グフフフ。
「あかりさん、ブラックですよね」
「フエッ?」
まさか、声に出してた⁉ 私って妄想が声に出てしまうタイプなのかも!? 怖い怖い怖い――!!
「じょじょじょ、冗談です。大雨になればいいだなんて嘘です!」
慌てて否定すると彼はきょとんとした顔でソーサーに乗った白いコーヒーカップを差し出した。
「ブラックですよね、いつも」
「あ、コーヒー」
「はい、コーヒーです。どうぞ」
「いただきます」
深入りの苦みのあるコーヒーを啜る。しかも彼と二人きり。なんて贅沢な時間だろう。
せめて飲み干すまででいい。雨よ降り止まないで……。
終
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