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雪夜の部屋にいつでも上がり込めたのは、俺があいつの部屋の合鍵を持っていたからだった。
勝手に作ったものではない。きちんと雪夜に了承を得ていた。だからいつでも中に入れたし、殺人の気配にも気づけたし証拠隠滅もできた。
雪夜は繊細で心が弱いから、俺に騙され続けてくれるだろうと思っていた。俺の与える「現実」を受け入れて、自分の犯してしまったことを忘れてくれるだろうと――そばにいればそうなるよう支えていられるだろうと思っていた。
雪夜はいつも俺を赦してくれるから。信頼してくれるから、と。
慢心していたのだ。
雪夜の心がその「現実」を受け入れないことがあるだなどと、考えもしていなかった。
あの日、駄目になってしまった包丁の代わりに俺が交換しておいたまだ新しい包丁を震える手で握りながら、雪夜は言った。
「……亮太がやっていたんだろう!?」
ぶるぶると震える刃は切っ先が定まっていない。お前はいつもこうして人を殺していたのか? と哀れに想う気持ちが湧いてくる。
「何の話だ?」
俺は普通の会話の温度で訊き返した。
「この部屋に入れるのは亮太だけじゃないか! 僕が人を殺したのにも気付いていたんだろう?」
言いながら、今度は泣きだす。殺された人たちは最期に雪夜のこんな表情を見ていたのか。
俺の知らない雪夜の顔を、はじめて見た。
これから殺す相手に向ける、恐怖と嫌悪と憐れみのこもった表情。
「どうしていつも何もなかったことになっているのか、不思議でならなかった。僕のやってしまったことはたしかなはずなのに、血も何も残っていない。死体を埋めた山に確かめに行ったこともある。なのにやっぱり、何もないんだ。僕は何人も殺してしまったはずなのに」
「――お前が人を殺せるはずがないだろう、雪夜」
穏やかに語りかける。それは悪い夢だ、と。
「何も残っていないのなら何も無かった、そういうことだ」
包丁を握る手どころか全身をがたがたと震わせる雪夜の肩に手を置いた。ずいぶん冷えている。緊張と恐怖と混乱が、雪夜を蝕んでいる。
「落ち着け、雪夜。だいじょうぶだ」
お前の罪は俺が全部片づけたから。お前は綺麗なままだから。そんな思いでなだめるように背を撫でると、その手を振り払われた。
「憶えているんだよ! 僕はちゃんと、僕が、僕の手が、人を殺したことを憶えている! 亮太が用意した日常が嘘だって、いくらなんでも分かる。この罪悪感が夢や偽物であるはずがないんだ!」
「雪夜……」
「僕の手はもうずっと汚れてるんだよ……」
膝から崩れ落ちた雪夜を見下ろした。そうか、駄目か――と天を仰ぎたい気持ちになった。
罪悪感、という感情の存在を忘れていた。と言うよりも、雪夜にその感情が発生する可能性を失念していた。
俺も結局、雪夜を人としては見ていなかったのかもしれない。
俺の予想しえない感情を持ち、それに動かされるということ。俺の用意した望ましい日常を選び取らないということ。
そんなことが起きるなんて、考えていなかったのだ。
雪夜を綺麗なままにしておきたいというのは俺のただの願望で押し付けで、当の本人はそうありたいと望んでいなかった。
なぁ、と怯える雪夜に問いかける。
「どうしていつも、見つけやすいほど浅い場所に死体を埋めていたんだ?」
雪夜に殺人を犯した事実があると認める発言を、俺はした。
雪夜は顔を上げ、包丁を強く握り直しながら答えた。
「誰かに見つけてほしかったからだ」
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