人型たち

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 大学一年生の鹿島慎吾は、入学に際して大学近くの古いアパートに引っ越してきた。  アパートは二階建てで、一階と二階にそれぞれ三つずつ部屋が並んでいる。  鹿島が借りた部屋は二階の右端にある203号室で、他の部屋に比べて家賃が格安だった。  大家さんによれば、203号室では怪奇現象が起こるらしく、借りた人はすぐに出て行ってしまうのだという。  鹿島はオカルト好きだったので、その怪奇現象とやらに興味が湧き、住んでみる事にしたのだった。  部屋の間取りは風呂無しの1Kで、六畳の和室に台所しか無い。部屋数は少ないが、その分家賃は安かったので、文句は無かった。  引っ越してきた初日は何事も無かったが、二日目の朝、鹿島は奇妙な物を見つけた。  和室の壁に、黒い人型のシミのようなものが浮かび上がっていたのだ。気味が悪い事に、大きさも人の背丈と同じくらいある。  昨日見た時には、こんなシミは絶対に無かった。  さっそく怪奇現象が起こったな、と鹿島は思った。不気味ではあるが、これくらいの事なら覚悟している。  鹿島は人型をたいして気にせず、朝食をとって大学に向かった。  翌日の朝、鹿島が目を覚ますと、人型がまた和室の壁にできていた。昨日の人型は南側の壁だったが、新しい人型は北側の壁にできている。これで人型は二つになった。  このまま人型は増えていくのだろうか。そう考えると少し恐ろしくなったが、これくらいの事で引っ越したくはない。  鹿島は人型が増えても気にしない事にした。  その後、鹿島の予想通り、人型は日を経るごとに数を増やしていった。  壁の人型は五人十人と増えていき、いつしか床や天井、果ては和室以外の場所にまで浮かび上がった。  だが、起きる事と言えばそれだけで、生活する上で特に支障は無い。  鹿島はそのまま203号室に住み続けた。  引っ越してから一ヶ月が経った頃。  鹿島は同じ文学部の友人である大橋と一緒に、大学のキャンパスを歩いていた。すると、異様な物が目に留まった。  校舎の壁に、黒い人型が浮かんでいたのだ。  鹿島は立ち止まってそれを見つめた。どうしてこれが大学にまで現れたのだろうか……。  立ち尽くす鹿島に、大橋が声をかけた。 「何見てるんだよ」  鹿島は我に返って答えた。 「な、何って、あれだよ。あんな黒いシミ、今まで無かっただろ?」 「シミ?」 「ほら、あそこの壁にあるだろ? 黒い人型の」 「いや、なんにも見えないけど」  鹿島はじれったくなり、大橋を壁の前まで連れて行った。 「ほら、ここだよ。この黒いシミ!」  そう言って人型を直接指さしたが、大橋は尚も訝しげに言った。 「いや、何も見えねえよ。俺を怖がらせようとしてんの?」 (それはこっちのセリフだ)と鹿島は内心思った。しかし、大橋が嘘をついているようには見えない。 「怖がらせようとなんかしてないよ。でも、本当に見えるんだ。黒い人型のシミが……。ほら、前に話しただろ? 俺の部屋は怪奇現象が起こるって」 「ああ、たしか壁に人型のシミが浮かぶって話してたな。それと同じ奴が見えるのか?」 「そう。でも、俺にしか見えないらしい」 「ふーん。なんでその人型が学校にまで出たんだ?」 「んな事は分かんねぇよ。とにかく、つきまとわれてるみたいだな」 「なあ、もう引っ越せってその部屋」 「嫌だよ。めちゃくちゃ安いんだもん」 「変な奴だな。度胸があるというか向こう見ずというか」 「俺だって命の危険を感じたら逃げるさ。でも人型がどれだけ増えたって死にはしないだろ?」 「まぁ、お前の好きにすればいいんだけどさぁ」 「あっ、そうだ。俺の部屋に遊びに来てくれよ」 「嫌だよ。怖いだろ」 「そう言うなって。本当に俺にしか人型が見えないのか確かめたいんだ。見えないって分かれば怖くなくなるだろ? 所詮、幻覚みたいなもんなんだから。なあ、頼むよ」 「そこまで言うならいいけど」 「ありがと。じゃ、大学終ったらな」 「分かったよ」  こうして、鹿島は大橋を部屋に呼ぶ事にした。  午後五時、大学の授業が終り、二人は同じバスに乗ってアパートに向かった。  バス停から歩いて五分の場所にアパートはある。  到着して、大橋が言った。 「意外と普通のアパートって感じだな。ちょっと古いけど」 「だろ? てか、怪奇現象が起こるのは俺の部屋だけだからな。他の部屋は大丈夫らしい。大家さんもこのアパートの一階に住んでるし」 「ふーん……」  二人は二階に上がり、鹿島が203号室のドアを開けた。 「どうだ、あちこちに人型があるだろ?」と鹿島。 「いや、なんも見えないけど」と大橋が部屋の中をきょろきょろ見回して言う。 「やっぱ幻覚みたいだな」  二人は玄関を上がって短い廊下を渡り、和室に入った。 「ここの人型はどうだ?」  鹿島がそう尋ねた時、突然、大橋が絶叫した。 「うあああああああああああ」 「お、おい、どうしたんだよ」  鹿島の問いに答えず、大橋は玄関に向かって走り、外へ逃げ出していった。  鹿島は部屋を見回した。だが、変わった物は見当たらない。今朝、外に出た時と同じだ。  その時、ポケットのスマホが鳴った。大橋からだった。  鹿島はすぐに電話に出た。 「おい、お前なんで逃げたんだよ」 「なあ、そこやばいって。すぐに引っ越せ」 「いったい何を見たんだ? 人型がたくさんあってビビったのか?」 「違う。人型なんて無かった」 「じゃあ何を見たんだ?」 「気になるか?」 「当り前だろ。早く教えてくれ」 「じゃあ、そこから引っ越せ。そしたら教えてやる」 「それは嫌だっつってるだろ?」 「そんな事言ってる場合か。絶対このままいたらヤバい事が起きる」 「なんでそんな事が分かるんだよ。お前霊感でもあるのか?」 「いや、無いけど……」 「だったらテキトーな事言うなって。てか、お前今どこにいんだよ」 「アパートの下だよ。本当はここにだっていたくないんだ。俺もう帰るからな」 「おい」  鹿島はそこで電話を切られた。  大橋はよっぽど恐ろしい物を見たらしい。  いったい何が見えたのだろうか。気になって仕方が無い。だが、あの様子だと大橋は教えてくれないだろう。どうしようか。  鹿島はしばらく考え、いい事を思いついた。スマホのカメラ機能を使い、部屋の様子を見てみる事にしたのだ。そうすれば自分の目では見えない物も見えるかもしれない。  スマホをタップし、カメラアプリを起動する。スマホの画面に部屋の映像が映った。  大橋が言っていた通り、映像の壁には人型が映っていなかった。やはり自分にしか見えない幻覚のようなものなのだろう。  その後、鹿島はスマホのレンズをすべての壁や天井、床に向けたが、おかしな物は一切映らなかった。試しに写真も撮ってみたが、やはり何も写らない。  結局、大橋が何を見たのかは分からなかった。  時刻は既に七時を回り、外は暗くなっている。鹿島はもやもやとした気持ちを抱えながら夕飯の準備をした。  翌日、大学に行くと、大橋が知らない生徒と一緒にいた。  鹿島は大橋に尋ねた。 「おはよ。その人誰?」  大橋が答える。 「おはよ。こいつは理学部の沖嶋翔太。俺と高校が一緒だったんだ」 「どうも」  沖嶋は低い声でそう言い、頭を下げた。 「ど、どうも」  鹿島も頭を下げる。 「沖嶋はな、霊感があるんだよ」と大橋。「だから昨日の事を相談したんだ。そしたら沖嶋も俺と同じ意見で、早く引っ越した方がいいってさ」 「んな事言われても」  鹿島には正直、沖嶋が胡散臭い存在にしか見えなかった。霊感があるというのも嘘かもしれない。  そう思っている事を察してか、大橋が言った。 「沖嶋の霊感は本物だぞ。高校の時、俺のじいちゃんが死んだ事を当てたんだ。沖嶋にじいちゃんが死んだって言われた後、本当に学校に電話がかかってきて、病院に行ったら死んでたんだよ」  大橋が嘘を言っているようには見えない。鹿島は沖嶋の霊感を信じる事にした。 「それなら信じてもいいかな。でも、どうして引っ越した方がいいの?」  沖嶋が答える。 「大橋君の話を聞く限り、そのアパート、相当危ない場所だよ」 「沖嶋君は、大橋が昨日何を見たのか知ってるの?」 「うん、知ってるよ」 「それって何?」 「いや、大橋君から口止めされてるから言えない」 「大橋!」と、鹿島は語気を強めて「気になるからいい加減教えろよ!」 「だから引っ越したら教えるっつってんだろ!」と大橋も応戦する。 「まあまあ」と沖嶋はなだめて「ただ、僕は部屋に行ったわけじゃないから、正確な事は分からない。実際にその部屋を見てみれば、もっと詳しい事が分かるんだけど」  そう言われ、鹿島は写真の事を思い出した。 「ああ、それなら、昨日部屋の写真撮ったから、それ見る?」 「うん、写真でもだいたいの事は分かるよ」  鹿島はスマホを取り出し、昨日の写真を見せた。  大橋もスマホをのぞき込んで言う。 「あれ、俺が昨日見た奴が写ってないぞ」  沖嶋が言う。 「基本的に幽霊は写真に写らないよ。肉眼だからこそ見えるんだ。だから、ほとんどの心霊写真は偽物なんだよ」 「へぇ」と鹿島。「だったら、写真なんか見ても意味ないんじゃねえの?」 「いや、たしかに霊そのものは見えないけど、霊の気配くらいなら分かるよ。この写真からは霊の気配がする。ただ、意外と嫌な感じはしないかな。部屋にいる霊は悪霊ではないみたい。危害が加えられるような事は無いと思うよ」 「ほらな、お前がビビりすぎなんだって」と、鹿島が大橋の背中を叩く。 「ほんとにアレが大丈夫なのか?」と大橋。 「うん。悪霊だったら写真を見ただけで分かるよ。でも、この写真からは何も感じない」 「これで安全だって分かっただろ?」と鹿島が得意げに言う。「さ、お前が何を見たのか教えてくれ」  大橋は拗ねた顔で言った。 「なんかムカつくから嫌だ」 「は?」 「沖嶋もこいつに教えんなよ」 「うん、分かった」 「え、沖嶋君まで俺の敵なの?」  鹿島がそう言うと、大橋と沖嶋は楽しそうに笑った。  鹿島はイラつきながら言った。 「他人事だから笑ってられるんだよ。見えない同居人と暮らす俺の身にもなれって」 「じゃあ引っ越せよ」と大橋。 「なんで安全だって分かったのに引っ越すんだよ!」  二人が言い合っていると、沖嶋が言った。 「でも不思議だね。なんで大橋君には黒い人型が見えないのに、アレは見えたんだろう。で、逆に鹿島君には人型が見えて、アレは見えない……」 「そんな事どうだっていいよ」と鹿島。「俺の部屋が安全だって分かっただけで十分だ。教えてくれてありがとうね」 「いいよこれくらい。また何かあったら相談してよ」 「なあ、俺にお礼は? 俺にお礼は?」と大橋。 「一応、連絡先教えてくれる?」と、大橋を無視して鹿島が言う。 「いいよ」  二人は連絡先を交換した。 「ありがと。じゃ、もう授業が始まるからこれで」と鹿島。 「うん、じゃあね」と沖嶋。 「俺にお礼は? 俺にお礼は?」と大橋。  三人はそれぞれの授業に出るために別れた。  沖嶋と会ってから二日後の朝、目を覚ました鹿島は、部屋の光景を見て愕然とした。  和室の壁、天井、床の全面が黒に染まっていたのだ。どこもかしこも黒、黒、黒。少しの隙間もない。おそらく黒い人型に埋めつくされてしまったのだろう。  昨日まで人型はたくさんいたが、全面が黒で埋まってしまう程ではなかった。それが一晩でこうなろうとは。  和室を出ると、廊下や玄関も和室と同じように黒で塗りつぶされていた。  異様な光景を呆然と眺め、さすがに鹿島も恐怖を感じた。  だが、すぐに沖嶋に言われた事を思い出した。この部屋にいるのは悪霊ではないのだ。  それに、人型は自分にしか見えない幻覚のようなもので、本当に部屋中が黒に染まっているわけではない。 「ビビらせんじゃねえよ」  鹿島はそう独りごち、真っ黒い部屋の中で朝食をとった。  その日の深夜、和室で眠っていた鹿島は、寝苦しくて目が覚めた。  なぜか心臓がバクバクと脈打ち、呼吸が乱れている。  鹿島は自分が強烈な恐怖を感じている事に気づいた。だが、そもそも何を怖がっているのか分からない。  とりあえず、部屋の電気をつけた。相変わらず壁は黒く染まっている。その壁の中央に、赤い人型が浮かび上がっていた。他の人型と違い、子供くらいの背丈しかない。  それを見た瞬間、鹿島は心臓が締めつけられるように苦しくなり、全身から冷や汗が噴き出した。  自分が恐怖しているのは、間違いなくこの赤い人型だった。本能が危険である事を告げている。このままだと、自分は死ぬ。  鹿島は今すぐにでも逃げだしたかったが、腰が抜けて動けなかった。  助けを呼ぼうと、震える手でスマホを掴む。急いで沖嶋に電話をかけた。スマホの時計には3時22分と表示されている。起きてくれればいいのだが。  祈るような気持ちでコール音を聞いていると、「どうしたの?」という沖嶋の声が聞こえた。 「い、今、壁に赤い、赤い人型が浮かんで、助けてくれ」 「落ち着いて。とにかく、危ないと思うなら早く逃げて」 「か、か、体が、動かない」 「分かった。僕がそっちに行くから待ってて。それから、写真は撮れる?」 「写真?」 「赤い人型が浮かんだんでしょう? その写真をメールで送信して。何か助言できるかもしれないから」 「わかった」  鹿島はカメラアプリを起動し、レンズを赤い人型に向けた。スマホの画面には、はっきりと赤い人型が映った。 「うわぁあ」  鹿島は叫んでスマホを落とした。スマホに映ったという事は、この人型は幻覚などではなく、本当に壁が赤く染まっているという事だ。  鹿島はスマホを拾い、写真を撮って沖嶋に送った。  スマホを耳にあてがって言う。 「赤い人型が映った。スマホにも。幻覚じゃないんだ。どうしよう。このままだったら、俺は殺される」 「落ち着いて。写真を見たけど、やっぱり霊の悪意は感じないよ。だから鹿島君は殺されない。怖がらず、とりあえず外に出て」 「わかった」  鹿島はスマホを握りしめたまま、這いずるように和室から出ようとした。 「ふふふ」  その時、壁から笑い声がした。見ると、赤い人型から、子供の顔が飛び出していた。顔だけではなく、胴体や手足も浮き出てきて、一人の少女が壁から部屋の中に降り立った。  少女は十歳くらいの背丈で、全身の肌が赤く、目と口の中は真っ黒だった。  鹿島は恐怖で声も出ない。  少女は黒い口をにっと曲げて微笑み、鹿島に近づいて来た――。
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