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「あ、あれ? もしかしてもう終わりですか?」  私はぽかんと戸口を見つめた。肩と足元を雨に濡らしたお兄ちゃんが、困り顔で私を見返している。傘も傘立てに半分挿して固まったままだ。私が何も言わないので、お兄ちゃんはますます慌てて言葉を継いだ。 「今日はまだ降りそうですもんね。ここに来る間にも早じまいしている店が何件もありました。すみません俺、お店が閉まってることに気づかずに入ってきちゃって」  私の様子を見て、もう店を閉めたと思ったらしい。違うのよ、と言って安心させてあげなきゃと思う。それでも私はまだぼんやりとして動けない。  お兄ちゃんはさぞや居心地が悪かったことだろう。いつもよりも口数が多い。私はといえばなんだか夢のなかにいるようで、ふわふわとした思考を纏められないでいた。 「あの、俺帰ります」  私がそんなふうなので、ついにお兄ちゃんが踵を返した。そこでやっと、呆けていた頭がぱちんと弾ける。 「ダメです!」  ドアノブにお兄ちゃんの手が掛かるより前に、カウンターから飛び出して扉の前を塞ぐ。  嫌だった。帰したくなかった。ぼんやりしてしまったのは嬉しかったからだ。諦めて悲しくなっていたところに、会いたい人が現れたから。 「確かにもうそろそろおしまいにしようと思ってましたけど、まだ閉めてません。せっかく来てくださったんだからゆっくりしてらしてください」  お兄ちゃんの勘違いを利用して扉にクローズのプレートを掛ける。雨足はとても強まっていて、少し身を出しただけで片腕がびしょ濡れになった。 「でも」 「貸切です」  恐縮するお兄ちゃんに、ふふ、と笑ってホールの照明も絞る。カウンターと店の奥まったところの明かりだけを残した。彼の定位置のソファが、まるでスポットライトを浴びたみたいに浮き上がる。 「こんな大降りのなか帰るなんて嫌だもの。よかったら雨が上がるまで付き合ってください」  カウンターに戻って戸棚からタオルを二枚取り出す。 「お兄さんもどうぞ。いくら夏でも、濡れたままだと風邪ひいちゃいます」  お兄ちゃんはさっきまでの私みたいに呆けている。タオルは受け取ってくれて、濡れた肩を拭いていたけれど。 「コーヒーでいいですか? ちょうど淹れたところだったんです」  口を挟む隙を与えずにぺらぺらと喋った。やっぱり帰ると言われたくない。とっておきのカップに注いだコーヒーをトレイに乗せても、お兄ちゃんは動かない。不安になるけれど、努めて明るく振る舞った。 「いつもの席でいいですよね」  カップの脇にクッキー用の豆皿を置く。それを見て、お兄ちゃんがやっと動いた。 「いえ。差し支えなければカウンターで」  そう言いながらカウンターに歩み寄り、少し首を傾げる。私が頷くと、彼は正面に座った。目の前にたくさん盛ってあるクッキーを少しだけ取り分けるのもどうかと思い、山盛りのお皿をカウンターに出す。彼はそこからひとつ取って口に入れた。 「美味しいですね」 「ありがとうございます」  嬉しくて、自然と笑みが浮かぶ。頬も赤いかもしれない。 「そう言っていただけると張り切って作ってきた甲斐があります」  私も手を伸ばしてクッキーを食べた。さっきよりもずっと美味しい。くるくると感情が巡っていたせいで慎重さに欠けていた。 「手作りなんですか? すごいな。もしかして、いつものも?」  もうひとつを手に取って、お兄ちゃんが私を見た。しまった、と焦ったけれど、お店のお菓子を手作りするのは別に特別なことじゃない、と思い直す。 「そうなんです。お口に合ってたらいいんですけど」  大丈夫。変じゃない。焦りを顔に出さずに微笑んだ。お兄ちゃんはコーヒーをひと口飲んで、またクッキーに手を伸ばす。やっぱり甘党だ。 「あの。実はちょっと気になっていることがあって」 「はい?」  私はクッキーをたくさん食べてもらえたことが嬉しくて。さっきから嬉しいことばかりで。にこにこと聞き返した。 「こんな言い方するとちょっと何かアレなんですけど」  お兄ちゃんは少し言い難そうに言葉を切る。またコーヒーを飲んで、それから一気に言葉を吐き出した。 「どうして俺のコーヒーにだけいつもお菓子を添えてくださるんですか⁉︎」 「ふえっ」  思わぬ質問に私の口からは変な声が飛び出してしまった。お兄ちゃんは顔を赤くして汗までかいていて。私はきっともっと真っ赤で、目を回している。  バレてた!  どうしよう。どうしたらいいの?  パニックになりながら店のなかを見回す。逃げるところも、助けてくれそうなアイテムも無い。観念して正面を見ると、彼の方も私と同じような顔できょろきょろしていた。  もしかしたら。  冷静な私と、わたわたと落ち着きのない私が両側から囁きかける。  今かもしれない。  外は大雨だけど。夜だし、お日様なんて見えないけれど。勇気を出して、張りぼての翼を少しだけ広げてみようか。 「あの」 「あの」  二人の声が重なった。  雨はまだ激しく降っている。  だけどきっと――
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